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册封使赵文楷的琉球见闻考——以《槎上存稿》的咏物诗为中心

  【要旨】嘉庆4年8月19日、赵文楷と李鼎元は清朝の皇帝より册封使として、尚温册封の命を受けた。これは、清朝における4回目の琉球国王の册封であった。

  赵文楷ら一行は嘉庆5年(1800年)5月12日に那覇港に着き、すべての公事を终え、10月25日に福建に向けて那覇を出航した。10月29日午前、航海中に海贼船に遭遇、夕暮れ顷やっと撃退し、11月1日に福建省の竿塘に到着。册封の旅程を终えている。赵文楷の诗集『石柏山房诗存』第5卷『槎上存稿』では、赵文楷自身の眼光による册封経験の全貌を知ることができる。

  歴代の册封使において、赵文楷、李鼎元のように册封正副使ともに诗文に长けていることはごく稀である。二人の诗文は共通の场所やテーマを见出すことができ比较が可能である。清朝初期の中琉关系史や琉球史研究において、これらの诗は重要な资料となり得る。

  赵文楷の诗人としての文学的成就は、その子孙赵洛の著作『诗人赵文楷』において详细な整理と绍介が行われているが、先行研究においては、まだその琉球をテーマとした作品全般の分析と検讨はなされていない。中国には「托物言志」(物に托し志を言う)という伝统ともいうべき考え方があり、赵文楷の琉球をテーマとした咏物诗に対して分析を行うことは、当时の琉球の物产について知るのみならず、赵文楷の心の赴くところを窥い知ることもできる。

  本稿では、赵文楷の滞在期间中の咏物诗について分析をするとともに、副使李鼎元の册封使録『使琉球记』を参考し、さらに李鼎元及び前使徐葆光の同じテーマの诗文についても比较検讨を行う。

  赵文楷の咏物诗については、「寄生螺」「野鹰来」「中山马」「龙鰕」「海鳗」「石松」の6首を通して、以下の特色を明らかにした。

  一、赵文楷の咏物诗は、彼の他のテーマの诗と异なり、その多くが古诗であり诗句が长いのが特征である。

  二、赵文楷の咏物诗は、客観的な描写よりも、その心象风景の表出が多く、自由奔放で异国情绪に溢れている。

  三、赵文楷は异郷琉球に身を置いているが、その诗が关心を示している焦点は、中国を离れることはない。例え、その咏物诗が言及した物产であっても、わざわざ琉球人の使う名称や过去の使録に记された名称を用いることはなく、中国での既有の名称を用いて呼称としている。

  四、赵文楷は、琉球人の歓待と厚情に感じ入り、深く心に留めている。

  五、赵文楷の咏物诗では、その多くが他の物の心象を借りて表象し、または物に托して、その知识分子としての知见を表わしている。

  以上、册封使として琉球での见闻に基づく、赵文楷の诗が描き出す文学的特色の分析を试みることが、本论文の中心をなすものである。

  【キーワード】册封使、赵文楷、『槎上存稿』、咏物诗

  一、はじめに

  干隆59年(1794)4月8日、琉球国王尚穆が薨じ、世子尚哲もすでに亡くなっていたため、世孙の尚温が国事を司ることになった。嘉庆3年(1798)8月、2年7ヶ月の服丧期间が明けた后、尚温は正使で耳目官·向国垣と、副使正议大夫·曾谟を遣わして进贡し、あわせて袭封を请うた。そして、嘉庆4年8月19日、赵文楷(1760-1808)は命ぜられて使琉球册封正使となり、李鼎元は副使に充てられた。これは、清朝における第4回の琉球册封であった。

  副使·李鼎元が着した册封使録『使琉球记』には、その拝命から帰国するまでについて、次のように记されている。

  赵文楷らは任命されたのち、嘉庆5年(1800)2月28日に北京を発ち、山东省、江苏省、浙江省を経て、闰4月8日に福建省の福州に到着した。5月7日に福州を出航、5月12日に那覇に到着し、迎诏三接の礼が行なわれている。6月8日、王庙の崇元寺で故王·尚穆の霊を祀る「谕祭の礼」が行なわれ、7月25日、首里城正殿前の広场で诏勅や颁赐の品々を収める「阙庭」といわれる高殿において册封礼を挙行した。

  そして、すべての公事を终え、10月15日に登舟し、东北の季节风を待ち、10月25日に出航した。10月29日に午前中海贼船に遭遇、夕暮れの顷やっと撃退し、11月1日に福建省の竿塘に着き、册封の旅程を终えている。

  歴代の册封使の中において、赵文楷と道光18年(1800年)に来琉の林鸿年の2名のみが、状元出身であった。先行研究において上里贤一は、册封正副使が二人とも诗文に长けていることはごく少数であり、且つ二人の诗文は共通の场所やテーマを有していることを指摘している。二人の诗文は比较研究の対象とすることができる。 

  また、廖肇亨は、赵文楷と李鼎元が琉球への册封使を拝命してから诸方より赠られた诗は二千首余に及び、まさに干嘉时代の一大盛事であり、帰国后彼らの琉球での経験は多方面に影响を与えたことを指摘している。同时に、赵文楷の诗人としての文学的成就は、その子孙赵洛の著作『诗人赵文楷』において详细な整理と绍介が行われている。 

  しかし、赵文楷の人物像やその作品についての研究は绪に着いたばかりであり、赵文楷の诗集『石柏山房诗存』については、研究を深める必要性と意义がある。册封使としての経験の全貌は第5巻『槎上存稿』に记述されており、琉球での経験を明らかにするのに有用であり、また高い文学的価値を有するものと考える。

  本稿では、特に赵文楷が琉球滞在期间に咏んだ咏物诗の诗意について分析を进め、その琉球の动物、水产等に対する描写を通して、当时の琉球の社会、文化及び自然环境等に対する赵文楷の关心と兴趣の倾向や特征について検讨する。また、中国の诗歌の「托物言志」(物に托し志を言う)の伝统から、赵文楷の文学的な脉络と心の向かうところについても考察したい。

  二、『槎上存稿』にある咏物诗

  「咏物诗」とは、中国诗のテーマ、内容の形式であり、その伝统は『诗经』、『楚辞』まで遡る。一物を一题として具体的な物象を吟咏するものと、物の形を借りながら具体的な物象の描写にこだわらないものとに分けられる。本稿では、动物、水产等具体的な物を描写した咏物诗に绞って考察を行うこととする。

  赵文楷が琉球滞在期间中に作った咏物诗は计8首あり、その描写する対象は、(一)动物类:「寄生螺」「野鹰来」「中山马」、(二)水产类:「龙鰕」「海鳗」「石松」、(三)器物类:「球轿」「中山王赠刀」に分けられる。ちなみに、『槎上存稿』には、他にも「中山王赠东洋纸」「又赠团扇」の2首の诗があり、その诗题を见るに器物と关わりがあるかのようであるが、その内容は物の形や性质等を叙述したり、器物を通して思いを述べ表わすものでもなく、中山王への感谢を咏って赠ったものであり、赠答诗に分类されるべきものであると考える。

  今回は、纸幅の关系もあり、以下の动物类と水产类を咏んだ6首の诗について考察する。

  动物类

  ①寄生螺(ヤドカリ)

  ◎「寄生螺」 

  天地本籧庐  天地 本は籧庐にして
  乃为众生窃  乃ち众生 窃むことを为す
  百年亦寄耳  百年 亦寄るのみにして
  过眼电光瞥  过眼して电光の瞥するがごとし
  海螺有遗蜕  海螺の遗てたる蜕有りて
  潮汐荡逾洁  潮汐に荡われ 逾洁し
  有虫入其内  虫有りて其内に入り
  偶尔相联缀  偶尔して相に联缀す
  日久形亦化  日久しくして 形亦化す
  契合犹扂楔  契合して犹ほ扂楔のごとし
  六足藏盘磴  六足 盘磴に藏し
  一螯当戸闑  一螯 戸の闑に当つ
  縁壁如悬珠  壁に縁りて悬珠の如く
  爬沙类跛鳖  沙を爬きて跛鳖に类る
  有时复惊人  时に复た人に惊かさるること有らば
  退缩影倏灭  退缩して影倏ち灭ぶ
  伟哉造化功  伟なる哉 造化の功 
  生理亦何别  生理 亦何をか别にせん
  鸠既夺鹊巣  鸠 既に鹊巣を夺い
  蟹亦居蛇穴  蟹 亦蛇穴に居す
  入室任他人  入室して他人に任せ
  千古同一辙  千古 一辙を同にす
  太息谓微虫  太息して微な虫に谓ふ
  保身要明哲  保身すれども要は明哲なり

  【诗型】五言古诗。

  【语釈】○籧庐 旅の宿。[荘子、天运第十四]仁义、先王之籧庐也。○扂楔 扂はクワンの木。とざし。楔は门の両旁の长闑。ほうだて。ほこだち。○盘磴 曲がりくねって上がる石の阶段。○跛鳖 动きが钝いことの比喩。[楚辞、厳忌〈哀时命〉]:驷跛鳖而上山兮、吾固知其不能升。

  【訳】

  天地はもとよりひとつの旅舎である。众生に占拠されている。人生百年はただ暂时の寄居に过ぎない、眼前を过ぎゆく稲妻の光芒の如く一瞬である。巻贝は贝殻を残す。潮に洗われて更に清らかになる。虫が殻に入り、思いもかけずこれと繋がる。

  长き歳月が过ぎゆき、虫の姿もこれにより変わる。互いは闩と方立の如くぴったりと合う。6つの脚は螺旋殻に隠し、大きな螯を方立とする。壁を登るときには空に悬った珠のようであり、砂地を行くときはびっこをひく鳖の如くのろのろとしている。ただ、时に人に惊ろかされることがあると、突然殻の中に引きこもり姿を消すのである。

  大自然の神の业は伟大である。各々の生物の生理はこんなにも异なっている。鸠は鹊の巣を夺って居り、蟹は蛇の穴に入る。自分の家に他人を自由に出入りさせる。古来より同じ法则である。私は深いため息をついて、この小さき虫に言う。保身のためにも处世の道理を知らねばならないと。

  【分析】

  この诗は寄生螺(ヤドカリ)のことを咏んでいる。

  副使·李鼎元の『使琉球记』の6月10日の记载によれば、その日は雨天で多くのヤドカリが庭に出现したことが分かる。赵文楷と李鼎元は、それでこれを诗题として诗を咏んでいる。

  本诗は全文24句で构成されているが、その诗意と押韵の転换の状况によって、三つの段落にわけることができる。以下、その段落における诗の解読を试みる。

  诗の一段落目は1から8句目である。天地はひとつの旅の宿のようなものであるが、世の万物に占拠されていることを感叹するところから、巻贝の殻はどのように小さな虫に占有されたのかへとつなぎ、ヤドカリの来歴を描写する。ここでは巻贝を用いて天地と対比し、虫を众生と引き合わせている。同时に、虫の短い命は第3、4句に咏んだ「百年亦寄耳,过眼电光瞥」に表现されている人类の短い生命と呼応している。赵文楷はヤドカリを见かけたときに、人は巻贝の殻を借りて住んでいる虫のようであると思い、ヤドカリは小さいが私たちも小さい、巻贝の殻は、本来は小さな虫のものではないように、天地も私たちのものではない。人间とヤドカリは、同じように大自然の因縁により寄宿をしている过客に过ぎないと感じている。

  9から16句目は、诗の二段落目にあたり、ヤドカリの外観と行动を描写している。11、12句目の「六足藏盘磴、一螯当戸闑」は、副使·李鼎元の『使琉球记』6月10日のヤドカリの描写「触之则大跪尽缩、以一大螯拒户」(これを触れれば则ち大跪すべて缩め、一大螯を以て户を拒ぐ)に符合する。また、徐葆光の词「后庭宴〈寄生螺〉」の中の「一螯拒户身蜷局」(一螯户を拒ぎ身蜷局す)にも近似している。赵文楷と李鼎元は徐葆光の影响を受けているのが分かる。さらに、13から16句目の「縁壁如悬珠、爬沙类跛鳖、有时复惊人、退缩影倏灭」ではヤドカリの动作をいきいきと语り、その动きへの惊きを表している。

  最后の一段、第16から24句では赵文楷のヤドカリに対する感慨を述べている。その中の「鸠既夺鹊巣」は『诗经·召南·鹊巢』の「维鹊有巢、维鸠居之」を典故とするものである。「蟹亦居蛇穴」は『荀子·劝学』の「蟹六跪而二螯、非蛇鳝之穴无可寄托者、用心躁也」からきている。赵文楷の眼中に映るヤドカリが巻贝を占拠する行为は、鸠が鹊の作った巣に居し、蟹が蛇の穴に入るに似たものであるが、「入室任他人,千古同一辙」の部分はヤドカリに、古来よりどこにでもあること、どうしようもないことであると、言い逃れを与えているかのようである。そして、ヤドカリに「明哲保身」(保身のためにも处世の道理を知らねばならない)と勧め、帰结させるのである。

  この诗と徐葆光の「后庭宴〈寄生螺〉」、李鼎元の「寄生螺」は、いずれもヤドカリを拟人化しているが、赵文楷と他の二人の异なるところは、诗の中に自らの参与があり、ヤドカリを通して自身を省み、人生は短いものであるとの感慨を持つに至っていることである。

  この他、徐葆光がヤドカリは蟹类であるとし、李鼎元はその使録の中でヤドカリについて「蟹也而有螺性(蟹であり、而して螺の性ある。)」と记しているのに対し、赵文楷はヤドカリを「虫」(虫)と呼び、赵文楷は生き物を総体として捉え、细分化しない倾向があるように见える。「羽虫」(鸟)、「毛虫」(獣)、「甲虫」(亀)、「鳞虫」(鱼)、そして「裸虫」(人)と全て「虫」と见れば、皆同じ命のあるものである。

  ②鹰(サシバ)

  ◎「野鹰来」  野鹰来たる

  野鹰来       野鹰来たりて
  风萧骚       风 萧骚として
  海天漠漠秋云高   海天 漠漠として秋云高し
  盘空欲下复不下   盘空して下りんと欲して复た下りず
  禽兽走匿亡其曹   禽兽走りて匿れるも 其の曹を亡くす
  扶桑九月天犹热   扶桑の九月 天犹热く
  十十五五争先发   十十五五 先を争いして发つ
  翩然一击觉身轻   翩然たる一击 身の轻きを覚え
  万里平芜洒毛血   万里の平芜に毛血洒る
  野鹰来       野鹰来たりて
  来何处       来る 何れの处か
  云是伊平与由吕   云えば是 伊平と由吕にして
  此外之水乃弱水   此の外の水 乃ち弱水なりと
  古来无人至其所   古来 人の其の所に至る无く
  其中云有三神山   其の中に三神山有りと云う
  楼台璚树虚无间   楼台 璚树 虚无の间
  凤皇鸾鹤好俦侣   凤皇 鸾鹤 好き俦侣なり
  何为舍此来人寰   何为れぞ此を舍てて人寰に来たる
  肃肃复肃肃     肃肃 复た肃肃
  飞来上我屋     飞来す 我が屋の上
  似曾识我中原人   曽て我が中原の人たるを识るに似て
  独立愁胡侧两目   独立して愁胡し两目を侧つ
  此鹰亦非鹰     此れ鹰にして亦鹰にあらず
  此是当时海东青   此是 当时の海东青なり
  当时兴平为尔建大屋 当时 兴平にて 尔の为に大屋を建て
  金鞴玉绦披彩翎   金鞴 玉绦 彩翎に披く
  琵琶弹出新翻曲   琵琶 弹き出だし新たに曲翻べば
  天山围坐千人听   天山坐を围みて千人听く
  方今 圣人戒游豫  方に今 圣人 游豫することを戒めれば
  高拱深宫奏韶濩   高拱し深宫にて韶濩を奏づ
  太阿一拭封狼摧   太阿一たび拭えば封狼摧き
  那顾草间狐与兔   那ぞ顾みん 草间の狐と兔とを
  买鹰怀鹞非其时   鹰を买わんとするも鹞を怀きて其时に非ず
  尔纵奇姿终不遇   尔たとえ奇姿あらんも终に不遇ならん

  野鹰来       野鹰来たりて

  无久住       久しく住まること无く

  云飞海击入空冥   云飞して海を撃ち空冥に入る

  慎勿飞入中原去   慎みて飞び入り中原に去くこと勿かれ

  【诗型】楽府。

  【语釈】○野鹰来 襄阳古乐府。沔水の南に层台あり、景升台といふ。荆州牧、刘表が襄阳を治めたとき筑いたもの。景升は刘表の字である。表は鹰を好み、かつてこの台に登って野鹰来の曲を歌ふ。○亡其曹 曹とは群のこと。亡其曹は动物の群れが散り散りに逃げること。〔曾巩、一鹗〕啁啾燕雀谁尔数、骇散亦自亡其曹。○伊平 伊平屋岛のこと。○由吕 与路岛のこと。○三神山 仙人が住んでいるという渤海中の蓬莱、方丈、瀛洲の三山。○弱水 古代神话において危なくて渡りにくい河である。[苏轼、金山妙高台]蓬莱不可到、弱水三万里。○璚树 仙树。○肃肃 すみやかなさま。○愁胡 胡の地を思う。ここでは物思うこと。○兴平 県名。ここでは鹰の海青のため屋敷を建てた兴和県を指す。○海东青 鹰の异名。海青と同じ。〔元史、文宗记〕命兴和建屋居海青、上都建屋居鹰鹘。○金鞴 金の鹰の止り木。○玉绦 美しい枝。○新翻曲 [杨允孚、泺京杂咏一百首]为爱琵琶调有情、月高未放酒杯停、新腔翻得凉州曲、弹出天鹅避海青。○韶濩 殷の汤王の音楽。その后、庙堂、宫廷の音楽か荘厳な古楽をいう。○太阿 古の宝剣の名、泰阿。○封狼 大きい狼。奸贼のたとえ。[李商隐、韩碑]淮西有贼五十载、封狼生貙貙生罴。○狐兎 悪人、小人のたとえ。○怀鹞 鹞とは、はしたかのこと。怀鹞は唐太宗と魏征の逸闻から出た典故である。[刘餗、隋唐嘉话]唐太宗得鹞、絶俊异、私自臂之。望见郑公、乃藏于怀。公知之、遂前白事、因语古帝王逸豫、微以讽谏。语久、帝惜鹞且死、而素严征、欲尽其言、征语不时尽、鹞死怀中。

  【訳】

  鹰は萧々と吹く风に乗って飞んでくる。海と空は広く果てしがなく、秋の云は高い。鹰は天空を旋回し、降りてくるかと思えばまた高くを飞ぶ。群れとなった鸟や动物は逃げ隠れ、四方に散る。琉球の9月の天気はまだ暑い。鹰の群れはばらばらでそろうこともなく、我先にと获物を狙う。一羽の鹰が軽々と小鸟を狩り、その身のこなしは軽やかで、获物の毛や血を万里の野原に散乱させる。

  鹰はどこから飞んでくるのか。人は伊平屋岛と与路岛から来ると言う。それらの岛に属する海以外のところは、神话の中の険悪で渡海の困难な「弱水」である。古来から谁もそこにはたどり着いてはいない。そこには、3つの神山(蓬莱、方丈、瀛洲)があるという。仙人の楼台园林は茫漠として远く云の中にある。鹰よ、凤凰、鸾、鹤という仙人の鸟が仲间としているならば、何故に仙界の日々を舍てて人の世界に来るのか。

  鹰は敏速に私の家の屋根に飞んでくる。私が中原から来た人であると分かるかのようだ。鹰は、一羽屋根に止まり物思うように両目を细める。この鹰は普通の鹰ではなく、海东青鹘である。元朝の时代に元の文宗皇帝が、兴和県に鹰のための大邸宅の建造を命じ、金で作った止り木、玉で作った枝を备え、さらに鹰に彩りあざやかな羽毛を缠わせた。琵琶で鹰のために作った新しい曲「天鹅避海青」を奏で、千名を超える人々が天山の麓に座り、この曲に耳を倾けた。

  但し、今上の皇帝は享楽を戒め皇宫の奥に端坐している。音楽を奏でるもただ荘厳な古楽を演奏させるのみである。太阿宝剑を磨けば奸贼は退散し、どこに草むらの中の狐や兎(小人の隠喩)を気にする必要があろうか。鹰を买ったとしても、唐太宗が鹞を懐に隠しているかのように、あなたの时机ではない。たとえあなたが奇才であったとしても重用はされまい。

  飞んできた鹰は长く留まることはないが、云の间を飞びまわり、海の上で狩りをし、また大空に舞い戻る。鹰よ、中原に飞んでいくことなかれ。

  【分析】

  9月2日、赵文楷と李鼎元は琉球で初めて鹰を见た。李鼎元の使録には以下のように记载されている。

  「是日初见鹰……鹰为东北风飘至、至亦不多、率痴不能击、儿童获之、绳系以为玩、致死乃已。」(是日初めて鹰を见る。……鹰、东北风に飘されて至り、至ても亦た多からず、ね痴にして击はず。儿童之を获り、绳を系ぎ以て玩と为す。死に致って乃ちむ。)(李鼎元『使琉球记』巻5、9月2日の项)

  この鹰(サシバ)に対する李鼎元の印象は、ⅰ 东北风と共に来ること、ⅱ 愚かで人を攻撃できないこと、ⅲ 子どもの慰み者になること、に集约できる。 

  赵文楷の「野鹰来」でも同様に、鹰は、ⅰ 旧暦9月に(扶桑九月天犹热)、ⅱ 风と共に(野鹰来、风萧骚)、ⅲ 群れをなして(十十五五争先发)、ⅳ 伊平屋岛と与路岛から来る(云是伊平与由吕)、ことを示している。これらの特征は、毎年新暦の10月8日前后に冲縄で见られるサシバの大群の渡りと概ね符合する。

  しかし、赵文楷の「野鹰来」は、李鼎元の使録にある鹰(サシバ)以上に截然たるイメージを呈している。赵文楷が描いた鹰は飒爽とした勇姿であったが、时机の巡りあわせが悪くて无用の长物とされた。苏轼はその「野鹰来」で鹰のような人材を得ても失败してしまった刘表を叹いているのだが、赵文楷の「野鹰来」では今の中国はこのような游宴享乐な人才(鹰)を必要としてはおらず、婉曲に今上の皇帝の明徳を称赞しているのである。

  この诗は、全部で5つの段落に分かれるのであるが、第一段落冒头の1から9句「野鹰来、风萧骚、海天漠漠秋云高、盘空欲下复不下、禽兽走匿亡其曹、扶桑九月天犹热、十十五五争先发、翩然一击觉身轻、万里平芜洒毛血」では、鹰が禽鸟を狙う勇姿を咏んでいる。8、9句目「翩然一击觉身轻、万里平芜洒毛血」は杜甫の「画鹰」の「何当击凡鸟、毛血洒平芜」(何か当に凡鸟を撃ちて、毛血 平芜に洒ぐべき)を踏まえた诗句である。

  第2段落10から18句「野鹰来、来何处、云是伊平与由吕、此外之水乃弱水、古来无人至其所、其中云有三神山、楼台璚树虚无间、凤皇鸾鹤好俦侣、何为舍此来人寰」では、鹰は伊平屋岛や与路岛から来たことを示して神话化している。18句目「何为舍此来人寰」で、鹰に何故仙界の生活を谛めて俗世に来たのかと闻いているとき、それは赵文楷自身の俗世の轭から离れたいとの愿望も反映されているかもしれない。

  19から28句は三段落目にあたり、二段落目の问い「何为舍此来人寰」を受けている。サシバは赵文楷の问いに応えるようにそのすぐ近くまで飞んできて、赵文楷は『元史』の海东青鹘の典故を借りてサシバが元朝の皇帝の宠爱を受けていた过去(当时兴平为尔建大屋、金鞴玉绦披彩翎、琵琶弹出新翻曲、天山围坐千人听)を描写している。22句目「独立愁胡侧两目」は、再度杜甫の「画鹰」の「侧目似愁胡」(目を侧てて愁胡に似る)の表现を転用している。

  第四段落29から34句の诗意は一転し、元朝の时代と比べて今の中国皇帝は、安逸享楽を戒め、名刀を持って奸贼を退散させ、小さな获物·狐や兎を捕まえることができる鹰を全く目に留めない(方今 圣人戒游豫、高拱深宫奏韶濩、太阿一拭封狼摧、那顾草间狐与兔)とした。赵文楷は「买鹰怀鹞非其时、尔纵奇姿终不遇」と感叹を発している。赵文楷は、隠然と今上の皇帝について、周りはみな人材であり奸贼はおらず、元の文宗が海东青鹘のために邸宅を建てたり、唐太宗が鹞を懐に隠すように享楽を贪ったりはしないと、そのの明徳を赞美している。

  终段の「野鹰来、无久住、云飞海击入空冥、慎勿飞入中原去」は、苏轼の「野鹰来」の最后の段落の「心悠哉、鹰何在。嗟尔公子归无劳、使鹰可呼亦凡曹。天阴月黑狐夜嘷。」(心悠なるかな、鹰何くにか在る。嗟尔公子归れ劳する无かれ、鹰をして呼ぶべからしめば亦凡曹ならん。天阴り月黑く狐夜嘷ゆ。)の诗に呼応しているのかもしれない。

  轼の诗では、鹰はどこにいるのか见えない。苏轼は刘表に「帰りなさい。鹰(=人材)を呼んでも无益、来た鹰は皆凡庸のものだから」と言っている。一方で、赵文楷の诗では「今は游宴狩猎で楽しむ时ではない。サシバに、中原に来ないでくれ」と言っている。

  ③马

  ◎「中山马」  中山の马

  我闻青海之驹高八尺 我闻く 青海の驹 高さ八尺にして
  龙种不许寻常识  龙种 寻常に识られるを许さず
  岂知海外扶桑东  岂知らんや 海外 扶桑の东 
  歘见当年好头赤  歘に见る 当年の好头赤
  馆门晨开森画戟  馆门 晨开すれば画戟 森として
  黄帽奚官平屋帻  黄帽の奚官 屋帻 平らかなり
  青鬉剪出三花高  青鬉 剪り出して三花高く
  当阶牵来气无敌  阶に当て牵き来たれば气 无敌なり
  双瞳回顾凡马惊  双瞳 回顾すれば凡马惊き
  四蹏矗立如铁色  四蹏 矗立して铁色の如し
  偶然振鬛一长鸣  偶然 鬛を振り一たび长鸣せば
  秋天无云日色白  秋天 云无く日色白し
  锦鞯丝辔金络头  锦鞯 丝辔 金の络头に
  我时骑向南山游  我 时に骑りて南山に向い游ぶ
  直渡浅海如舟浮  直たりて浅き海を渡るに舟の浮かぶが如く
  惟闻两耳风飕飕  惟闻く 两耳に风 飕飕たるを
  我行万里半天下  我 万里の天下を半ば行きて
  恨不千金买骏马  恨むらくは千金をもって骏马を买わざることなり
  怜才辜负九方歅  才 九方歅に辜负すことを怜み
  空见驽骀徧原野  空しく见る 驽骀遍く原野にあるを
  岂如此马好骨相  岂 此の如く马の好き骨相あらんや
  路隔沧溟空怅望  路 沧溟を隔てて空しく怅望す
  若教飞取入中原  若し飞取して中原に入れ教なば
  百战功成图阁上  百战の功成りて阁の上に図すべし
  中山地险无甲兵  中山 地险にして甲兵无く
  昔日三分今荡平  昔日 三分するも今 荡平なり
  可怜好马千万匹  怜む可し 好马千万匹
  脱衔负轭营春耕  衔を脱ぎ轭を负いて春耕を营む
  十月秧田青瑟瑟  十月の秧田青く瑟瑟として
  芳草无边半斜日  芳草 边无く斜日半ばなり
  时平皂枥老骅骝  时平らかにして皂枥に骅骝老いるも
  努力畊田未为失  畊田に努力し未だ失と为さず

  【诗型】七言古诗。

  【语釈】○青海之驹 青海骢のこと。长江·黄河の発源地である青海の地に产する骏马。龙种という号がある。○歘见 たちまち见る。 [杜甫、题壁上韦偃画马歌]戏拈秃笔扫骅骝、歘见麒麟出东壁。○好头赤 秦马の名。[苏轼、戏书李伯时画御马好头赤]岂如厩马好头赤、立仗归来卧斜日。○画戟 色彩や饰りを施したほこ、警备に用いる。○黄帽 ここでは、琉球国の位阶制度の黄冠を指す。中、高级官僚の位。「亲云上」の肩书を持つ者。○奚官 元々は养马の労役者を指すが、ここでは琉球官员のこと。奚は契丹など东胡の一种。[苏轼、韩干马十四匹]老髯奚官骑且顾、前身作马通马语。○屋帻 帻とはずきん、髪を包むかぶりもの。屋帻とは头巾の一种である。○青鬉 黒いたてがみのこと。○三花 三花马のこと。たてがみを切り、三つに编んで饰りとした马。○锦鞯 あや织りの生地で作ったくらの下にしく下ぐら。○丝辔 シルクのたづな。○络头 おもがい。马のたてがみにつける饰り。○九方歅 即ち九方皋のこと。春秋、秦の人。善く马を相した。○驽骀 钝き马。○百战功成图阁上 汉宣帝のとき、匈奴を倒した十一名の功臣を记念するために、麒麟阁の上にその功臣の図を描いた。[李白、塞下曲]功成画麟阁、独有霍嫖姚。○皂枥 うまや。○骅骝 名马をいふ。周穆王の八骏の一つ。

  【訳】

  我は、青海驹は八尺の高さがあると闻いた。その马は龙の化身であり通常见ることはできない。海外东方の扶桑に着いたら、すぐに当时の御马·好头赤のような良马に会うことができた。朝、天使馆の门が开くとすぐ、堂々とした仪仗の彩饰が目に入った。黄帽を冠した官吏が头上に载せているものは、平らな头巾のようである。真黒な马の鬣は、高い三花のように整えられ、官吏は马を门の阶段まで牵いてきた。気势は他に胜るものがないほどである。この马は、ふたつの目を左右に一瞥するだけで、他の凡马はみな恐れをなし、すくっと立った四つの蹄は金属のような光沢を放つ。马が鬣を震わせひと声鸣けば、その嘶きは秋の日の天空を一筋の云も残さぬほどに震えさせ、白くキラキラとした阳光を见るのみとなる。

  锦缎の马鞍の下鞍、绢の手纲に金の面繋。私はよくこの马に跨って南山を周游した。马は、浅い海を海面に浮く小舟のように直接渡った。马は速く、私は马の上でただ両耳にヒューヒューと风の音を闻くのみであった。

  私は万里を行き天下の半分を巡ったが、高値を出して一头の骏马を买うことができないのが恨めしかった。善く马を见分けた九方歅が一头の良马を选ぶ心を无にしたのが惜しく、野原に満つる钝马を见、この马の良い体格とは比べ物にならないと思った。しかし琉球は远く大海を隔てており、私はただ马を目にしながら惆怅するのみである。もし大海を越えてこの马を中原に连れていけるならば、必ずや百戦百胜の功名を打ち立てたであろう。汉宣帝が麒麟阁に描いて称扬した功臣のように。

  中山の地势は険要であり武装した兵士はいない。昔日は天下は三分していたが、今は完全に扫荡平定されている。惜しむらくは、これら千头の良马は马衔をはずして轭を背に负い人に代わって春の畑を耕している。

  十月の苗代は依然として青々とし、眺めれば果てしのない草原である。太阳はすでに半ば沈みかけている。天下太平のときには、名马もただ厩で老いを迎えるだけである。このように人々のために畑を耕すのに力を尽くすのも损失とはいえないであろう。

  【分析】

  この作品から、赵文楷が琉球の马を高く评価していたことが伺える。元々明代初期、马は琉球から中国への主な朝贡品の一つであった。当时、明朝はまだ力を残しているモンゴルを平定するため军事行动を継続していた。しかし、军马の调达ルートの多くはまだモンゴル人の影响下にあったので、明は大量の马を琉球から输入した。一年间に900头もの马が海を越えたこともあった。モンゴル势力の平定が完了してから、ようやく琉球からの朝贡马の数は减少した。その事実からも琉球の马の优秀さが分かる。

  徐葆光の使録には琉球の马の状况について以下のように记されている。

  马与中国无异、高七八尺者絶少、蹀躞善行、山路崎嵚、上下砂砾中不见颠蹶、此则其所习也。上山渉水则驰。地既多暖、冬草不枯、马终歳食青、不识栈豆、故虽村戸下贫亦皆畜马、有事则敛用之、事过散还、村家亦有以马耕者。」(马、中国と异なる无し。高七八尺は絶へて少なし。行くに善し。山路、上下砂砾の中颠蹶见へず、此れ则ち其のれる所なり。山に上がり水を渉り则ち驰せる。地既に暖多く、冬草枯れず、马终歳青を食し、栈豆を识らず。故に村戸の下贫と虽も亦た皆马を畜し、有事则ち之を敛用し、事过ぎて还り散り、村家亦た马を以て耕す者有り。)(徐葆光『中山伝信録』巻6、马)

  徐葆光が述べている琉球の马の特征はⅰ.石やくいにひっかかって踬かなく、乗り心地がよい、ⅱ.山道も海辺も走れる、ⅲ.豆类といった饲料がいらないので、贫しい者も皆马を饲っている、ⅳ.时々公用に征収される、ⅴ.耕作に使用される、という五つの点である。

  その琉球の马が海辺を渡るのに向いていることや耕作にも使われていることが、赵文楷の「中山马」という诗にも伺える。同时に、赵文楷の「中山马」も杜甫の马の象征の伝统を継いで、豪杰能臣の喩えを使ったり、自身の心象を暗示したりしている。特に杜甫の「房兵曹胡马诗」(房兵曹が胡马の诗)、「题壁上韦偃画马歌」(壁上の韦偃が画马に题する歌)と苏轼の「戏书李伯时画御马好头赤」(戏れに李伯时が画ける御马好头赤を书す)を意识している作品とも言える。

  「中山马」は、全部で32句の诗となっている。外形(押韵)に依って分けると五段となる。第一段となる1から12句は、主に琉球马の外観と気势について描写をしている。特に冒头の4句「我闻青海之驹高八尺、龙种不许寻常识、岂知海外扶桑东、歘见当年好头赤」で赵文楷は、名马の青海骢と好头赤を琉球の马になぞらえている。ここで兴味深いのは、苏轼の「戏书李伯时画御马好头赤」では、好头赤という马はやつれた戦马に相対する、赘沢な生活を享受している御马であることである。苏轼の作品では、好头赤より饥えている山西戦马の方が褒め立てられて。ここでも、赵文楷は优れた天赋を持つ琉球の马が御马から军马になることを期待しているのであろう。

  第二段の13から16句では、赵文楷の琉球马乗马の体験が描かれている。15、16句の「直渡浅海如舟浮、惟闻两耳风飕飕」では、その海を渡るときのバランスとスピードを褒めている。

  第三段の17から24句では、赵文楷はずっと良马を探していたが见つからず、また琉球の良马を中国に连れて帰ったら必ずや戦功をあげるであろうと思うにいたる。17、18句では「我行万里半天下、恨不千金买骏马」は、杜甫の「骁腾有如此、万里可横行」(骁腾此の如き有り、万里横行す可し)と呼応させているものと思われる。赵文楷も经世济民の愿望を持っていたのであろう。优れた马を见ると、国のために军马としての用途を思いつく。中国で用いるのであれば、きっと辉かしい武勲を立てることができる(若教飞取入中原、百战功成图阁上)。その発想の背景には、嘉庆一年の武装蜂起が一気に华北五省に波及し中国がなかなか平定できなかった白莲教の乱があるやもしれない。同时に、杜甫の「题壁上韦偃画马歌」での尾联「时危安得真致此、与人同生亦同死」(时危くして安んぞ真に此を致して、人と生を同じく亦死を同じくするを得む)と呼応する。杜甫の诗には、今の时世が安穏ではないので、もし本当に韦偃が画いている骅骝(=骏马)を手に入れることができれば、一绪に戦场に行きたいものだという感叹を発している。赵文楷の诗も、同じように解読できるものと思われる。

  第四段の25から28句では、琉球国の地势が険要であり加えて现世は泰平であるため武器を持った兵は必要がないことを记している。军马はこれにより农耕马となっている。このように多くの骏马が琉球で耕作に使われている光景を目にして、赵文楷は惜しく感じている(可怜好马千万匹,脱衔负轭营春耕)。

  一方で最后の段落の29から32句目は、视线をまた目の前の光景へと戻している。25、26句目の「中山地险无甲兵、昔日三分今荡平」の2行と终わりの「时平皂枥老骅骝、努力畊田未为失」では、赵文楷が琉球の平和に対して、羡望の眼差しを向けているように思われる。

  中山马の朝贡は康煕20年(1681)以降、中国侧の要求に応じてすでに中止になっている。もちろん赵文楷はこの诗を通して中山马の朝贡を再开することを望んでいるわけではない。清朝は军马に不足があったわけではなく、文臣であった赵文楷が従军を考えていたとも思われない。むしろ「人其の才を尽くす」べきという感叹を中山马に托し、自分が国のために功绩を残したいという志、平和でこれらのことを考える必要がない琉球への羡望の念を表现しているのであろう。

  (二)水产类:

  ①龙鰕(いせえび)

  ◎「龙鰕」

  馆人供馈苦好异  馆人 馈を供うるもはなはだ好异にして
  就中有鰕形最奇  就中 鰕有りて形 最も奇なり
  怪哉生平目未睹  怪なる哉 生平目に未だ睹ずして
  贝锦映日光陆离  贝锦 日に映えて 光 陆离たり
  八足盘珊两目出  八足 盘珊して两目出で
  森森介冑张之而  森森たる介冑 之而を张る
  人言此物是龙种  人言う 此の物是 龙种なりと
  胡为入馔充朶颐  胡为れぞ馔に入れ朶颐するに充てんや
  东海渔人潮下上  东海の渔人 潮に下上し
  钓取巨鱼二十丈  巨鱼二十丈を钓り取る
  中流有柱插天长  中流に柱有りて天を插して长く
  渔人识是鰕须张  渔人 是鰕须の张りたることを识る
  移舟缓避不畏惧  舟を移して缓やかに避け畏惧せずして
  眼看奇物如寻常  眼看の奇物 寻常の如し
  海云漠漠雷且雨  海云 漠漠として雷且つ雨となり
  恐有蛟螭来攫取  蛟螭来たり攫取すこと有らんと恐れる
  老饕急取付庖厨  老饕せんと急ぎ取りて庖厨に付え
  快刀细研如飞缕  快刀细く研ぎて飞缕の如し
  对酒当筵欣果腹  酒に対い筵に当たりて果腹を欣ぶも
  何如桂台老蛟肉  何如せん 桂台の老蛟の肉を

  【诗型】七言古诗。

  【语釈】○苦 ねんごろ。○盘珊 よろめいて歩くさま。○之而 鸟、獣、竜などのひげ。〔周礼、考工记、梓人〕深其爪、出其目、作其麟之而。○飞缕 [苏轼、泛舟城南会者五人分韵赋诗得人皆苦炎字四首]运肘风生看斫鲙、随刀雪落惊飞缕。○桂台老蛟肉 桂台とは、汉の未央宫の台名。汉武帝はこれを筑いて仙を求める。晋王嘉〔拾遗记、卷六、前汉下〕元凤二年、于淋池之南起桂台、以望远气。东引太液之水。有一连理树、上枝跨于渠水、下枝隔岸而南、生与上枝同一株。帝常以季秋之月、泛蘅兰云鹢之舟、穷晷系夜、钓于台下。以香金为钩、霜丝为纶、丹鲤为饵、钓得白蛟、长三丈、若大蛇、无鳞甲。帝曰:「非祥也。」命太官为鲊、肉紫骨青、味甚香美、班赐群臣。

  【訳】

  天使馆の役人は、饮食を供応するときに何か珍奇な食物を选んで提供する习癖がある。その中でもある种のエビは形が最も奇特であった。私は生まれてこのような奇怪なものを见たことはなかったが、その殻は锦のようにきれいで、太阳の光に映えて灿烂としていた。龙鰕は8本の脚があり、起き上がって歩く様子はよろよろしている。ふたつの目は突き出ていて、威厳のある甲冑をかぶり、髭を伸ばしている。人は、これは龙の化身であると言う。ならば、何故に肴にしてしまうのか。

  东海(东シナ海)では、海の潮の中で揺られながら、二十丈もある巨鱼を钓ろうと探す渔夫がいる。突然海流の中から一本の柱が天空に刺さらんばかりに耸え立つ。渔夫はこれはエビの伸ばした髭であるとわかり、舟を动かしてゆっくりと离れてゆく。全く怖がることはない。珍奇なものを见たとしても、彼らは平常通りなのである。

  海上には黒云が立ち込め、雷が鸣り雨が降る。渔夫は蛟龙が龙鰕を夺っていくのではないかと畏れ、食い意地の张ったものが急いで煮炊きに回す。包丁を振り细切れにし、龙鰕の身は风に舞うような细切りとなる。酒宴で楽しく腹を満たし、汉昭帝の时代に桂台で钓った蛟肉と比べてもどちらがおいしいかと思う。

  【分析】

  この诗は、赵文楷が龙鰕の外観に対する惊きを描写している。20句で构成されており、诗意に依り3つの段落に分けることができる。1から8句は一段落目となる。天使馆の供応の饮食の中で龙鰕が最も形が奇特であるとして、外観を详细に描写している。その一句目「馆人供馈苦好异」から赵文楷が天使馆の役人のもてなしに肯定的であることを感じ取ることができる。7、8句目「人言此物是龙种、胡为入馔充朶颐」では、ユーモラスな反问(あなた方は、龙鰕は龙の化身-龙は一种の神獣であり神圣にして侵してはならない象征-であると言う。ならば何故に肴にしてしまうのか)は、次の段落で绍介する渔夫の物语へとつないでいる。

  第二段落にあたる9から14句では、幻想的に夸张した笔致で琉球の渔夫が龙鰕に出会った过程を描いている。9、10句目「东海渔人潮下上,钓取巨鱼二十丈」の巨鱼の典故は、『庄子·外物』の任公子が东海で50头の牛で大鱼を钓った故事からきているものと思われる。

  第三段落の15から20句は、龙鰕を手に入れてから料理をして食べてしまうまでの过程を描いている。その内の15、16句目「海云漠漠雷且雨,恐有蛟螭来攫取」では、再度龙鰕と龙の化身を结びつけ、龙が伝说の中では降雨を司っていることから、雷が鸣り大雨が降る様子は蛟龙が怒り狂って自分の子供を取り返そうとしているかのようであるとしている。 

  最后の「何如桂台老蛟肉」は、〔拾遗记、卷六、前汉下〕を典故としているものと思われる。伝说中の皇帝は、桂台で白蛟を钓り渍けて食べたのが非常に美味であったと言う。赵文楷は、ここで反问として桂台の蛟肉とどちらが美味であったであろうかと问い、赵文楷は伝说中の蛟龙肉と并べられるほどに龙鰕は十分に美味であったと歌っている。 

  この他、李鼎元の『使琉球记』の5月17日の项にも、以下のようなイセエビに关する记载がある。

  阅案头食单、有所谓龙头虾者、葢水族虽多,隔日轮供。取视之、长尺余、绛甲朱髯、血睛火鬣、类世所画龙头、见之悚然。

  (テーブルにある食単をみると、龙头虾というものがある。鱼介类が多いが、一日おきに顺次供している。取ってみると、长さは一尺あまりで、赤い殻で赤いひげ、血のような色をした目と火のようなたてがみ、世で描かれた竜の头に类似している。これを见て、ぞっとした。)

  赵文楷の诗と相互に参照してみると、以下の3点に気がつく。

  ⅰ. 李鼎元が使用しているイセエビの名称は「龙头虾」で、これは琉球人が使っていた呼称を援用している。赵文楷は、过去に中国诗にて出てきていた名称「龙鰕(虾)」を使っている。 

  ⅱ. 李鼎元は、「绛」「朱」「血」「火」等の字句により何度もイセエビの赤色を强调しているが、赵文楷の诗においては一句もイセエビの色について出てこない。しかし、「八足盘珊两目出」との表现から、李鼎元が描写をしているイセエビは热を通した后のイセエビであり、赵文楷が书いたものは活きたイセエビであったものと推测される。活きたイセエビは、真っ赤な色ではないからである。 

  ⅲ. 李鼎元はイセエビは「见之悚然」(见ただけでぞっとする)と思っており、赵文楷は「森森介冑张之而」(威厳のある甲冑をかぶり、髭を伸ばしている)と形容している。二人ともイセエビの外観はいささか怖いものであったようである。

  ②海鳗(エラブウナギ)

  ◎「海鳗」

  东海有蛇人不识  东海に蛇有るも人识らず
  身如朽索色如墨  身は朽索の如く 色は墨の如し
  狰狞可畏势絶伦  狰狞 畏るべし势い絶伦なれば
  对此生憎况复食  此れに対すれば憎を生じ况や复た食するをや
  青丝缠缚翠筐陈  青丝 缠缚し翠の筐を陈ね
  夷人以之羞嘉宾  夷人 之れを以て嘉宾に羞む
  自言致此亦不易  自ら言う 此を致すこと亦易からずして
  买得一两朱提银  一两の朱提银をもって买い得るのみと
  问之何为尔    之れに问う何为れぞ尔るやと
  其味甘且旨    其の味 甘く且つ旨しと
  可以巳大风    以て大风を巳むべく
  可以固牙齿    以て牙齿を固めるべしと
  蝍蛆甘带鸱嗜鼠  蝍蛆 带を甘しとし鸱は鼠を嗜む
  啖象咀蛇何处所  象を啖らい蛇を咀むは何れの处所ぞ
  吾宁异味失当前  吾宁ろ异味 当前にして失い
  性所不能难强茹  性の能くせざる所にして 强いて茹うこと难し
  老齿未病身无风  老いても齿 未だ病まず身にも风无ければ
  安用毒物来相攻  安くんぞ毒の物を用って来たりて相攻めん

  【诗型】七言古诗。

  【语釈】○朱提 良质の银の异名。良银が朱提県から出る故にいう。○巳 ここは「已」の误字である。○大风 悪疾の名。かったい。癞病。○蝍蛆甘带鸱嗜鼠 物各々その好む所を异にするたとえ。[荘子、斉物论第二]民は刍豢を食ひ、麋鹿は荐を食ひ、蝍蛆は带を甘しとし、鸱鸦は鼠を嗜む。四者孰か正味を知る。(民食刍豢、麋鹿食荐、蝍蛆甘带、鸱鸦嗜鼠、四者孰知正味。)刍とは、草。草食动物のことで、牛や羊などを言う。豢とは养う意で、犬や豚などをいう。荐とは、獣の食する草。蝍蛆とは、むかで。带とは、带のように长いもので蛇のこと。むかでは蛇の脳を好むという。鸱鸦とはふくろう。○异味 普通とかわった珍しい味。○茹 食う。

  【訳】

  东海(东シナ海)には、人に知られていない蛇がいるという。その胴は腐败した縄のようであり、色は墨汁の如く黒い。その外见は狞猛で恐ろしく、刚猛无比であり、见ただけで嫌悪を感じる。ましてや味を见てみようとは。

  夷人(琉球人)は、その蛇を青色の纽で缚り緑のかごに入れる。これを以て宾客をもてなす。彼らは自分で、これを献上するのも容易ではない、一两の上等の银货が要ると言う。

  私は、彼らに何故このように贵重なのかと问うた。彼ら曰く、その味は甘みがあって美味である、癞病を疗治することができ、歯を强固にすることができるという。 

  ムカデが蛇を食べ、枭がネズミを好み、各々がそれぞれその好む所を异にするが、どこに象を食し蛇を噛むようなことをする人がいようか。私は、目の前の手に入りにくい珍味を味わう机会を逃したとしても、もとより私の生まれつきの资质に合うものではなく、自分に味わってみるよう无理强いすることもできない。私は老いているが歯はいたくないし、身体も癞病になったことはない。何故に毒を以て毒を制するようなことをする必要があろうか。

  【分析】

  この诗は赵文楷が初めて「海鳗」エラブウナギに接したときの反応を描写している。李鼎元の使録でも5月25日に海蛇について记されている。同时に、李鼎元も「海蛇」という诗を作っている。 

  赵文楷のこの诗は4段落に分けられ、第一段の1から4句はエラブウナギの外観を描写している。第4句の「对此生憎况复食」は、エラブウナギの外観が赵文楷には食べられないとする主な理由を记している。

  第二段の5から8句は、エラブウナギがどのようにしてお膳に载るのかについて触れている。また、琉球人はこれを宾客をもてなす贵重なものとしていることについても述べている。 

  第三段の9から12句は、琉球の役人の说明を引用して海蛇の味と効能について书いている。 

  最后の一段の13から18句は、荘子からの典故を引用し(「蝍蛆甘带鸱嗜鼠」)、自分の体は健常であり、毒を以て毒を制する必要はないという言い訳をしている。特に17、18句目の「老齿未病身无风、安用毒物来相攻」は、赵文楷の作品としてはあまり见られない自嘲を感じる表现である。

  廖肇亨が指摘しているように、赵文楷がエラブウナギを拒絶しているのと比べ、李鼎元はエラブウナギの见た目を怖がってはいるものの勇気を出して食してみており、「海蛇」の诗ではエラブウナギの味や薬効について详しく描写をしている。赵文楷も李鼎元も、诗作においては异郷の客人がエラブウナギにあったときの正直な反応を书き记しており、贵重である。

  ここで、赵文楷の「海鳗」の诗の特征について、2点挙げておきたい。

  ⅰ. この诗は长句、短句の活用により、全体が変化に富むものとなっている。また、句の形式において意识的に重复を用いて(可以…可以…)おり、字句の重复により吟咏で反复するリズムを作り出している。吟じて朗々としたものとなっている。 

  ⅱ. 赵文楷はエラブウナギの名称として「海鳗」を使用しており、李鼎元が以前の周煌の使録『琉球国志略』に记载の「海蛇」を用いているのとは异なる。これは「鳗」と「蛇」では人に与える印象がかなり异なるため、琉球人呈上の「食物」に対し、赵文楷はあえて「蛇」のような感じの悪い言叶を避けて、受け入れやすいイメージの「鳗」を以てエラブウナギを称したかもしれない。

  ③石松(オオイソバナ)

  ◎「石松」

  君不见马齿山下海千尺  君见ずや 马齿山の下の海千尺
  海水中有古松柏  海水の中に古き松柏有るを
  森然非柏亦非松  森然として柏に非ず 亦松に非ず
  何人镂刻琅玕石  何人か琅玕の石を镂刻せん
  叶纤纤兮枝玲珑  叶は纤纤 枝は玲珑として
  血色万古洪涛中  血色 万古より洪涛の中なり
  巧匠咋舌噤无语  巧匠 咋舌して噤み语ること无く
  信是天巧非人工  信に是 天巧にして人工に非ず
  冯夷之宫夜开晏  冯夷の宫 夜 宴を开き
  火树千枝万枝见  火树の千枝万枝を见ゆ
  朱凤当筵怒尾张  朱凤 筵に当たるに怒りて尾を张り
  赤龙绕座文鳞茜  赤龙 座を绕りて文鳞茜なり
  挹娄赤玉难为色  挹娄の赤玉 色を为すこと难しく
  石家珊瑚何足羡  石家の珊瑚 何ぞ羡むに足らん
  渔人偷折一枝来  渔人偷みて一枝を折り来たれば
  河伯惊呼走雷电  河伯 惊呼して雷电走る
  君不见沧海桑田一劫灰  君见ずや 沧海桑田 一劫して灰になり
  今朝波浪昔蒿莱  今朝の波浪 昔の蒿莱なるを
  摩挲此石亦非石  摩挲し 此の石 亦 石に非ず
  恐是麻姑亲手栽  恐るに是 麻姑の亲手して栽うるものかと

  【诗型】七言古诗。

  【语釈】○马齿山 庆良间诸岛のこと。○琅玕 玉みたいな美しい石。○冯夷之宫 水神のいます奥深い宫殿。○茜 あかね。あざやかなさま。○挹娄赤玉 挹娄とは、国名、汉以前の肃慎。赤玉はその特产である。○石家珊瑚 石崇が王恺の珊瑚树を撃砕し、更に美しい珊瑚树を返し、ひけらかしていたこと。○沧海桑田 青海原が桑畑に変わるように、世の中の移り変わりが激しいこと。次の「麻姑」の项を参照。○一劫 佛教用语。きわめて长い时间。○蒿莱 あれくさ、又草の茂っている所。○摩挲 よくよく考える。思案する。○麻姑 古の仙女。建昌の人。牟州东南の姑余山にて修道す。后汉の王方平(山に入って仙道を得た)が、蔡経の家に降ってこれを召す。至るを见れば、好女子にして、年、十八九ばかり。方平に向かって接侍以来、已に沧海三たび桑田となるを见る。今、海水また清く、往昔より浅しと言う。[神仙伝、麻姑]

  【訳】

  あなたは见たことはないか。马齿山の下の海は千尺の深さがあり、海の中には一本の古い松か柏に见える木があるのを。その木は枝が茂っているが、柏でも松でもない。谁が琅玕石を雕って作ったのか分からない作品である。

  その叶は繊细で、枝は细かく精巧で玉のように透き通っている。色は血のようで、万古の波涛に浸っている。秀で优れた工匠でも、それを见て惊いて言叶も出ない。人の手に依るものではない、天の神业であると信服させられる。

  水神冯夷の宫殿で夜の宴会が行われ、千万本の火树を见た后、红い凤凰が宴席で愤怒にまみれて尾羽を开き美を竞う。赤龙も席を取り巻きその鲜やかな红い鳞を见せびらかす。

  挹娄の特产赤の玉とそれとを比べると、赤の玉も色を失う。その美を见たら、石崇の持つ稀に见る珊瑚も、何を羡む必要があるだろうか。こっそり石松の枝を折った渔夫がいたが、水神河伯はそれに気がつくや大声で叫び、雷を以て追撃した。

  あなたは见たことはないか。青海原が桑畑に変わるように世の中の移り変わりは激しく、时间とともに灰や烟のように消えてゆく。今日の波涛は、昔日の荒野。私が思うに、この石は石ではなく、仙女麻姑が自ら植えた树であろう。

  【分析】

  赵文楷の诗题の注「生马齿山下、海中渔人泅水得之、石质赤色、亦颇似柏」は先行する汪楫の『使琉球杂録』卷4、徐葆光『中山传信録』卷6、周煌『琉球国志略』卷14に绍介されている海松の记载とかなり一致している。

  また、李鼎元の使録の9月13日の项にも、供応所から海松と石芝を一钵づつ届けてきたことが记されている。その海松に対する描写(「色如火」「叶酷肖侧柏」)も、この石松と同じである。 

  この诗は、20句からなり、外形(押韵)で分けると5つの段落に分けられる。第一段の1から4句と第二段の5から8句は、石松の外観について描写しており、赵文楷は古い松柏、玉、血の3つのイメージで石松(イソバナ)の形、手触り、色を喩えている。

  多くの华丽な词藻と典故を使って赏赞してもまだ足りないようで、赵文楷は第三段落の9から12句と第四段落の13から16句では、仮想の渔人が海の神の宴会に潜って海松を盗んだ话を书き、海松のこの世の物ではないほどの美しさとその贵重さを强调した。この神话的な描写は生き生きしている。

  最后の一段落(17から20句目)では、沧海桑田の典故を用い、石松の美しさが非凡であることを缲り返して强调している。

  诗は全体として石松を赏赞する内容に溢れている。それは、琉球国王に感谢の気持ちを伝えるためであろう。しかし、想像上の话を加える手法はすでに「龙鰕」で使われており、さらに美辞丽句を加えたところで深い情感や思いの呼応はなく、不足を感じるものである。

  ちなみに、赵文楷は石松を中国にもって帰り、家宝として伝えた。この件について『安徽省太湖县志』に以下の记载がある。

  邑赵氏有石松、质文类柏、高三尺许、枝劲如铁、色深赤、传是珊瑚别种。生琉球马齿山下海中、渔人泅水得之、嘉庆庚申、介山殿撰奉 使中山、自海舶携归、藏于家、洵宝玩也。

  (村の赵氏は石松を持つ。见た目は柏に似て雅やかで、三尺ぐらいの高さ、枝が铁のように固く、色が深红で、别の种类の珊瑚だと伝えられている。琉球の马齿山の下の海中に生え、渔人は水に潜ってそれを取る。嘉庆庚申(1800)、介山殿撰は皇帝の命令を奉じて中山に遣わされ、石松を舟から持って帰り、家に収蔵した。まことに宝物である。)

  三、おわりに 

  本稿では、李鼎元の『使琉球记』及び李鼎元の同じ主题による诗作を参照し、赵文楷が琉球滞在期间に咏んだ咏物诗の分析を试みたが、その特色は下记のいくつかに帰纳される。 

  赵文楷の咏物诗は、そのほとんどが古诗であり一首が长い。『槎上存稿』では、絶句や律诗が多く収録されており、赵文楷は古诗の诗型のみを好むものではない。琉球にて见かけたものの外観、由来及びこれら异国の物产が彼に与えた刺激や连想を详细に描写するために、いつもよりも多くの笔をとって书き记す必要があったのかもしれない。古诗は形式において比较的自由であり、赵文楷が彼の思うところを思うままに発挥するのに适しており、表现された情感も真诚、奔放であると言える。

  赵文楷は、琉球の动物、水产物について豊かな観察をしているが、诗中ではその心象风景についてより多くの表现をしている。赵文楷の记したイセエビを见ても、イセエビがどのような外见をしていたのかは记忆に残らないが、渔夫がイセエビを获るときに蛟龙に追われた様子は、目に浮かぶように活き活きと记述されている。中山马の诗では、中山马の特征が头に残るものではないが、马が耕作をする琉球の平和な风景が心に留まる。李鼎元の琉球に关する记述が観察がきめ细かく、致密で客観的であると言うならば、赵文楷の琉球に対するそれは、自由奔放で异国情绪に溢れた表现となっている。

  赵文楷は异郷琉球に身を置いていながら、その书き记したものの中に中国の姿が见られないものはほとんどない。例えば、サシバ、中山马を见ても、赵文楷は常に中国の模様に触れ琉球の现状と対照している。语汇においても、赵文楷は琉球人の使う名称や过去の使録に记された名称を用いることはなく、龙虾(龙头虾)のように中国に既有の名称を探してきたり、石松(海松)、海鳗(海蛇)のように中国にある似たものの名称を用いている。

  赵文楷は、琉球人の歓待と厚情を感じ、心に留めているものと思われる。「龙虾」、「海鳗」、「石松」の诗からも読みとれる。赵文楷は、エラブウナギを口にすることはしないのだが、わざわざ「夷人以之羞嘉宾、自言致此亦不易、买得一两朱提银」(夷人〔琉球人〕は、これを以て宾客をもてなす。彼らは自分で、これを献上するのも容易ではない、一两の上等の银货が要ると言う。)ということを挙げている。イセエビ、オオイソバナについても同様である。

  赵文楷の琉球汉诗から「托物言志」(物に托し志を言う)を窥い知ることができる。赵文楷个人の志はどのようなものであったのであろうか。「野鹰来」及び「中山马」から、赵文楷は、人はそれぞれの场所で人事を尽くし国に报いるべきであるとの志を有していることが见てとれる。赵文楷は、册封使としての琉球での公式の业务以外の场面においても常に国家社稷を忘れず、その琉球における咏物诗は、琉球での见闻、経験を记録するのみならず、当时の知识分子としての抱负、愿いを现わしている。
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