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近世琉球避讳考——以琉球文献资料对清帝称谓的记録为中心

  【中文摘要】近世琉球王国针对本国国王、德川幕府的将军、萨摩藩家主岛津氏以及中国皇帝的称谓都采取了避讳。本文主要就琉球王府对中国皇帝采取怎样的避讳做一考察。

  琉球的外交文书中凡涉及皇帝称谓的地方都采取阙字的方式以示避讳,这在《历代宝案》当中可以得到确认。王府的外交文书在避讳这个问题上态度是十分慎重的,自然的琉清交往当中也就没有出现过相应的外交问题。

  【关键词】避讳、尚家文书、历代宝案、阙画

  【要旨】近世琉球では、琉球国王家をはじめとして、徳川将军家·岛津家·清朝皇帝に対する避讳がおこなわれていた。本稿では、その中でも皇帝に対しておこなわれた避讳について検讨した。

  『歴代宝案』には、皇帝の讳の文字を阙画して使用するように具体的な指示が确认できた。琉球は外交文书ではこの点に十分に配虑していて、琉清间で犯讳による外交问题は起こらなかった。次に家谱资料を分析した结果、皇帝に対する避讳によって唐名を改名した者は、渡唐する者でかつ当代の皇帝に限られたことを指摘した。琉球社会への影响は、一部に限定されていたのである。また、「尚家文书」の史料からは、册封使の来琉に备えて常时以上に避讳を彻底し、皇帝の徳化を蒙る朝贡国としての姿を见せようとする施策を展开していたことが分かった。

  近世琉球の避讳は、中日の复合的な権威が重なり合う时代に表れた歴史事象であり、それは琉球独自の避讳の论理を形成させる要因となった。

  【キーワード】避讳、尚家文书、歴代宝案、阙画、

  はじめに

  琉球では18世纪に入ると、诸士(系図家谱を持つ士族身分)から百姓に至るまで适用される避讳がおこなわれるようになる。避讳とは、権力者の名前に含まれる文字を避けること、また禁止することである。名前への使用が禁止されたのは、琉球国王家をはじめ徳川将军家と岛津家の人物、そして清朝皇帝に因む文字であった。

  中国における避讳は周代に起こり、唐宋时代に盛んになった2000年の歴史を有するものとして知られ、陈垣『史讳挙例』(1928年)が避讳研究の白眉とされている。日本でも古くから「名実一体観」に基づく実名敬避俗(忌み名)が存在しており、穂积陈重『実名敬避俗研究』(1926年)が研究の嚆矢である。近年の日本史研究では、武家社会や公家社会での将军や藩主、天皇に対する避讳の研究が进められている。琉球でおこなわれていた避讳に关しては、东恩纳寛惇や田名真之の指摘が若干あるものの、いまだその全体像や歴史的な意义は明确ではなく、さらなる検讨を要する。

  そのため本稿は、近世琉球(1609年-1879年)における清朝皇帝の讳に対する避讳の考察をおこなう。皇帝に対する避讳行为についてこれまでは漠然とした理解であったが、『歴代宝案』や家谱资料からその様相を整理する。また、「尚家文书」には、前代の皇帝に対する避讳が国王の位牌にまで影响を及ぼしていることの是非が议论されており、また册封使の来琉を意识した避讳行为の强化もみられる。以上の问题についても、これまでの研究では利用されなかった史料をもとに分析する。

  なお、笔者の力不足と纸幅の都合のため、琉球国王家や岛津家、徳川将军家に关する避讳を含めた全体的な分析は别稿に譲ることにしたい。

  一、『歴代宝案』にみる避讳

  清朝皇帝に対する避讳について検讨する前提として、琉球国内の法令史料から避讳の概要を确认する。家谱の作成や记载上の规定などを记した『系図座规模帐』(1730年)によると、琉球国王家の人物で避讳の対象となるは次の者たちである。

  ①第二尚氏の开祖尚円、②现国王の高祖父、③现国王の曾祖父、④现国王の祖父、⑤现国王の父、⑥现国王、⑦现国王の嫡子、⑧现国王の嫡孙。

  さらに、「一従御国元节々御禁止被仰渡候文字之仪者、御申越次第御书付相届候ハヽ、于御系図座可相记事」との一条もあり、萨摩藩から布达される岛津家や徳川将军家に因む避讳も规定の中に含まれていることが分かる。

  琉球の外交文书を集成した『歴代宝案』には、避讳に关する文书が2件収められている。これまで『歴代宝案』から避讳の问题について论究した研究はないため、まずはその内容を整理することからはじめる。2件はいずれも清朝后期の18世纪末から19世纪中期にかけての文书である。

  ひとつ目は、『歴代宝案』第7册83巻に収められている干隆60(1795)年9月の干隆帝(1711年- 1799年、在位:1735年- 1796年)による上谕である。干隆帝が皇太子(后の嘉庆帝)を册立し、翌年に譲位することを告げる内容であるが、全文は长文に及ぶため下记には避讳に关する部分のみ引用する。

  皇太子名上一字改书颙字其余兄弟及近支宗室一辈以及内外章疏皆书本之永不宜更改清书缼写一点以示音同字异而便临文

  皇太子である永琰の「永」の文字は多用されるため、同音の「颙」の文字に改名し、兄弟や皇室の近亲者や章疏では本字の「永」を利用し、また満州语で表记する际には一点を欠书せよ、と指示されている。

  次に、琉球国王(尚泰)から福建布政使司に宛てた道光30(1850)年8月6日付けの咨覆を検讨する。この咨覆は、咸豊帝(1831年-1861年、在位:1850年-1861年)の御名を逥避(避讳)する方法についての上谕を伝达する咨文を受领したことを报告するもので、『歴代宝案』第13册189巻に収められている文书である。

  琉球国中山王世子尚 为咨覆道光

  参拾年伍月貮拾壹日准

  贵司咨开奉

  巡抚部院除 宪案道光参拾年参月拾

  参日准

  礼部咨仪制司案呈道光参拾年正月拾

  玖日内阁抄出拾柒日奉

  上谕道光貮拾陆年参月

  皇考特降

  谕旨以貮名不偏讳将来継体承绍者上壹字仍

  旧毋庸改避亦毋庸缺笔其下壹字应如何缺

  笔之处临时酌定以是着为令典等因钦此今

  朕谨遵

  成命将御名上壹字仍旧书写毋庸改避下壹字

  缺写末一笔作□(詝の阙画字)字以示改避之意其奉

  旨以前所刻书籍俱毋庸议钦此钦遵抄出

  到部相应行文福建巡抚转行琉球国王

  世子一体遵照可也转行琉球等因到院

  行司立即转移琉球国世子一体遵照

  毋遅等因奉此合就移知为此备咨请烦

  一体敬避以着下国慎事之诚理合咨覆

  为此备咨

  贵司请烦査照施行须咨者

  右       咨

  福建等处承宣布政司

  道光参拾捌月初六日

  道光帝(1782年-1850年、在位:1820年-1850年)は道光26(1846)年3月に、讳の二字すべてを避讳することはせずに、上の一字目はそのまま使用し、下の一字は状况に応じて勘案して决めるように、との谕旨を下していた。これに従った咸豊帝は、上の一字は避讳せずに、下の一字だけ最后の一画を省いて改避(避讳)の意を表すように命じる。福建巡抚部院の宪案を受けた福建布政使司から咨文で琉球に送られ、琉球侧がその旨を了承したことを咨覆で报告する内容となっている。

  この咨覆の中では仪制司の案呈が引用され、そこには「相应行文福建巡抚转行琉球国王世子一体遵照可也」との文言があり、具体的に琉球に対して避讳の指示が明记されている。このようなことが分かる史料は非常に希れである。

  また、この咨文に关连する内容のものが、対清外交文书の様式などを概说した魏掌政(1826年-?)著作の『清末汉文组立役家伝书』(1860年ごろ成立)の中に记されている。该当するのは、琉球人と清人の质疑応答形式で各种の问题が说明される部分である。

  道光30(1850)年の咨文の中では、咸豊帝の讳「奕詝」の一文字目は避讳せず、二文字目は最后の一画を省いて书くようにとなっている。しかし、挙人の谢鼎による批示では、「凡所进表奏咨不唯禁止□(詝の阙画字)字即凡宁旁亦当敬避勿用」とあって、詝の文字を阙画するだけでなく、宁が旁に含まれる文字も避讳しなければならない、とされた。宁の旁を含むすべての文字を避讳すべきなのか、あるいはその文字自体を避讳して使用を控えるべきなのか、「以明尊敬之道耶」というのが琉球人の质问である。清人の回答は、琉球の奏擢·表文·檄礼などでは□(詝の阙画字)を禁止するだけでなく、宁の旁を含む文字と上一字「奕」の文字も避讳して使用してはならない、というものだった。ここでは、皇帝の谕旨以上に厳格な避讳行为が求められている。

  以上、『歴代宝案』の中で皇帝への避讳に关するものについて简単に整理した。琉球の対清外交文书の中では、抬头や欠字という敬意様式だけでなく、このような避讳による阙画(汉字の画を省くこと)が存在していた。『歴代宝案』で直接的に避讳や阙画について言及がある文书は2件のみであったが、外交文书作成の际にこのような问题を琉球侧が考虑していなかったとは考えられない。

  同じく近世の东アジアでは、康熙50(1711)年に日本と朝鲜の间で「国讳论争」が起こっている。日朝双方の国书の中で、それぞれ朝鲜国王と徳川将军の讳が避讳されていないことに端を発するものだった。この事件は当该期の日朝间における政治论争のひとつであると同时に、东アジア世界の中で他国の権力者に対する犯避が重大な外交问题に発展する可能性があったことを示すものである。しかし、琉清间では管见の限りこのような问题は起きていない。琉球が皇帝に対する避讳を十分に理解して外交文书を作成していたという、朝贡国としての政治姿势と配虑を一贯して保持していたからであろう。

  ここまで述べたのは、あくまでも外交文书上における避讳の问题であった。次は名前という个人の表象に対して、避讳の论理がいかに琉球で作用したのかについて検讨する。

  二、家谱にみる避讳の论理

  东洋史研究者の井上进によれば、明朝において避讳の法は疎略であり、天启·崇祯の治世にようやく整えられ、清朝では康熙帝(1654年-1722年、在位:1661年-1722年)の治世になって皇帝権力を强化する意味を込め厳格におこなわれるようになった。そのため、琉球で皇帝に対する避讳が问题となったのは、明代ではなく清代以降であると考えられる。家谱资料をみると、皇帝の讳に因む避讳がみられるようになるのはやはり康熙帝以降の清代に入ってからである。

  避讳の方法は阙画のほかに改字(别の文字に置き换えること)や空字(空栏にすること)があり、琉球では文字自体を避ける、またはすでに皇帝の讳を名乗っていた者は改字の敬避方法が取られている。家谱には、康熙帝の讳(玄烨)「玄」、干隆帝の讳(弘暦)「弘」「暦」などの文字を持つ者が改名していることが确认できる(下记【表】を参照)。

  次に、家谱からの具体的な改名事例を通して、皇帝に対する避讳の论理について検讨する。はじめに取り上げるのは、久米村の陈氏(仲本家)の避讳による唐名の改名である。陈氏(仲本家)11姓昌言(1705年-1743年)には4人の息子がおり、长男「弘泽」(1730年-1785年)が「宏泽」に、三男「弘毅」(1737年-1794年)が「宏毅」、四男「弘谟」(1742年- 1805年)が「宏谟」に唐名をそれぞれ改名している。いずれも干隆年间に存命していた人物であり、当代の干隆帝に対する避讳が改名理由である。4人の中で唯一改名していない次男「弘道」は、雍正12(1734)年にわずか3歳で死去している。干隆帝の即位前の人物であったため、改名する必要がなかったのである。

  しかし、同时代に「弘」の文字を唐名に含むものの、家谱资料からは改名したことが确认できない人物たちも存在していた。久米村の梁氏(阿嘉家)の场合では、7世の弘基(1768年- 1843年)·弘谟(1777年-1852年)·弘训(1780年-1859年)·弘文(1782年-1841年)の4兄弟はいずれも干隆年间に成人している者たちであるが、改名せずにそのまま「弘」を含んだ唐名を使用している。先ほどの陈氏(仲本家)の避讳の论理を考えると矛盾するようにみえるが、改名の有无は双方の渡唐経験の差异に关连している。

  改名している陈氏(仲本家)の3名は干隆年间中に渡唐を経験しているが、改名していない梁氏(阿嘉家)の4名は、干隆年间に生まれて成人しているものの、渡唐を経験するのは嘉庆年间以降である。つまり、改名している前者3名は渡唐する际の现皇帝(干隆帝)に対する避讳を理由に改名したが、改名していない后者4名は渡唐する际すでに前皇帝(干隆帝)の讳を唐名に含んでいても问题とならなかった、という推论が成り立つ。この推论から道き出せるのは、渡唐者は当代の皇帝に対する避讳を厳守する必要があること、またそれは先代の皇帝には当てはまらず、その一代限り避讳すれば问题ないということである。

  それでは逆に、渡唐経験がないにも关わらず、皇帝に対する避讳を理由に改名した事例についても検讨する。御克秀(1686年- 1730年)は、剃髪して医者となった际に玄长と名を改めるが、家谱には「后改元长」と割り注で补足がある(これは康熙帝に対する避讳である)。彼に渡唐経験はないが、康熙58(1719)年に册封使节に随行していた清人の医者である王清镃という人物から医学を学んでおり、琉球国内での清人との接触时に配虑して改名した可能性が考えられる。また、前述した陈氏(仲本家)とは别の陈氏(真栄平家)の事例を挙げると、长男「弘训」(1704年-1757年)が「箴训」に改名し、次男「弘业」(1711年-1713年)が早世のため改名しておらず、三男「弘谟」(1721年-1777年)は「鉴谟」に改名している。兄の弘训は干隆年间に渡唐を経験しているが、弟の弘谟は渡唐経験がなく、玄长のように国内で清人と接触したことも家谱上では确认できない。この场合は、兄が改名したことに合わせて避讳したと考える方が妥当であろう。

  このように家谱には皇帝に対する避讳によって改名した事例はいくつか确认されるが、琉球国王家や萨摩藩からの禁令による避讳を规定している「大与座规模帐」(1730年)と「系図座规模帐」には、皇帝への避讳に关するものはない。しかし、これまで検讨してきた家谱に记された改名事例は、皇帝に対する避讳が琉球人の名前(唐名)に作用していたという実态を表している。前述した『歴代宝案』のような外交文书の世界だけでなく、琉球の个々人の名前に対しても皇帝の権威が及んでいたのである。その反面、梁氏(阿嘉家)のように渡唐していない者たちが避讳していないことは、皇帝に対する避讳が琉球国内の中で十分に内面化されていなかったことも表している。これは琉球国王家や岛津家に対する避讳と比较すると、注目される差异であろう。それでは、渡唐する者が避讳して唐名を改名する必要性とは、どのような论理によるものだったのか。

  それは、まさに清人に避讳していないことを见咎められる可能性が存在したからである。琉球国王は、渡唐使节に対して渡航证明书である执照を発给するが、そこには乗船者の名前が正使から通事、水夫に至るまで个人名が记载された。执照は巡って福建巡抚や礼部の清人の役人らの目に入るものである。このような清人に见咎められる危険性を考虑すると、唐名に避讳がおこなわれる论理の必然性は明确である。琉球は皇帝に対する避讳を遵守している姿势を外交文书の文面だけでなく、个人の名前からも示していたのである。

  三、「尚家文书」からみる避讳の问题

  「尚家文书」には、「崇元寺并三ヶ寺御神位御名之内书替日记」(1869年)という史料がある(以下、「书替日记」と记す)。「书替日记」は、同治8(1869)年の2月から10月までの期间に、崇元寺·圆覚寺·天王寺·龙福寺·天界寺の各位牌の文字を书き直した际の记録である。「三ヶ寺」と称される圆覚寺·天王寺·天界寺は、それぞれ第二尚氏の国王、王妃、その他の第二尚氏に因む人物たちの御庙である。龙福寺は天孙氏から第一尚氏に至るまでの御庙で、崇元寺は舜天から第二尚氏に至る歴代の国庙だった。この史料では、皇帝に対する避讳について王府と久米村が议论する内容が记されている。

  まず、同治8(1869)年2月に问题となったのは、御庙にある位牌(神主)に正字でない文字で国王らの名前が书かれたものがあることによるものであった。それらは「皇帝様(清朝皇帝)」や「太守様(岛津藩主)」の讳字のため阙画して记していたのであるが、これを「有之间敷哉、相糺可申上旨被仰渡相糺候」として正字に直すべきだと议论されたのである。具体的には、清朝8代皇帝の道光帝の讳は「旻宁」のため、第二尚氏7代国王·尚宁(1564年-1620年、在位:1589年 - 1620年)の「宁」の文字は「寕」と阙画した文字が位牌に刻まれていた。

  王府内でも、「皇帝様之御名字ニ而当分通被召置候哉」、または「御先代之事ニ而本字ニ而御书替被仰付候而茂可相済哉」と议论になるが、最终的には「御先代之事候得者其仪ニ及不申、本字ニ而御书替被仰付候而可然哉」と结论が出される。つまり、王府はすでに2代遡る道光帝の讳は避ける必要がない、と判断したのである。このとき、同时に位牌の文字の中で俗字が使用されているものもあり、それらも『康熙字典』にある正字に书き直すことが并せて决定された。

  この阙画事例で検讨すべきなのは、尚宁は17世纪に薨去しており、道光帝はそれからおよそ200年后の皇帝という点である。つまり、位牌の文字は道光帝の即位后に改めて阙画した「寕」に直されたと时间轴では想定される。「书替日记」にも、「宁之字者 道光皇帝様之御名ニ而此寕ニ画相直、尚寕様之御神位者其通被拝置候、道光より御先代之事候处、右通画相直居候仪者兎角御神位御涂替等御座候而、其时相直居为申半」とあり、位牌の涂り替えの际に阙画した文字に直したのではないか、と王府も考えていた。実际に、册封使来琉前の各地·各所に対する令达がまとめられた「冠船付回文」(1838年)の中には、王府から首里·那覇に対して次のような指示が出されていた。

  一旻宁之二字者、

  皇帝様之御名ニ而名字又者诗文等ニ相用候仪坚令禁止候、自然右之内一字相用不申候而不叶节者、旻之字者𣅐と书、宁之字者寕と书画相省可相用事、

  「旻宁」は皇帝様(道光帝)の御名(讳)であるため、名前や诗文に使用してはならない。もしどうしても使用しなくてはならないときは、「旻」は「𣅐」に、「宁」は「寕」と阙画した文字を使用するよう、首里·那覇に対し命じている。道光帝は当代の皇帝であり、册封使の来琉をひかえ、册封使一行の清人らが滞在する町方において避讳に配虑するよう特に指示が出されていることが分かる。

  しかし、「书替日记」では康熙帝の讳である「玄烨」の「玄」を「𤣥」に阙画して记すべきところを、そうしていない「区々相成」状况であることも王府に报告されている。「宁」の文字に关しても、武宁の文字はこの「寜」になっており、尚宁の阙画字(寕)とは同じではない。

  以上からは、いずれか二つの解釈が可能である。ひとつは、やはり册封使らに见咎められる可能性を危惧して以前に阙画した文字に位牌を书き替えていたという解釈であり、もうひとつは、正字の「宁」を必ず用いるよう厳密な意识が书き手になかったのか、または本来から「寕」の字であったのかという解釈である。后者を论证するためには、原本史料に记载された尚宁の文字を网罗的に分析する必要性があり、本稿では一先ず推论のひとつとして提示するに留める。いずれにしても、一连の王府内の议论からは、皇帝に対する避讳が国王の位牌にまで及ぶものだと考えていたこと、またそれは先代の皇帝に対しては必要ない、という论理に至ったことが分かる。

  また、册封使来琉を前にして琉球侧の避讳意识が强化された一例が「尚家文书」にある。すでに麻生伸一が绍介しているが、それは道々にある「泰山石敢当」の「泰」の文字を隠すという行为である。今回册封を受ける尚泰の「泰」の文字を避讳していないことに対して、清人に见咎められる可能性を危惧しての施策だった。琉球では名前に対して避讳を适用していたが、このときは册封使らを意识して石敢当に刻まれた文字にまで彻底した避讳行为をおこなっている。これは麻生が指摘するように、册封使らに対して琉球が「属国」として相応しい国家であることを直接的に表明するための琉球侧の施策のひとつである。また、清における避讳の论理(「于唐者御名ニ有之候字者不相用由候间」)を受容した琉球王権の姿を示すことは、琉球社会の中で常时以上に王権の権威が强化される作用もあった。

  おわりに

  本稿は、近世琉球で皇帝に対しておこなわれていた避讳について、『歴代宝案』や家谱资料、また「尚家文书」からそれぞれ検讨してきた。避讳に关する问题はこれまでの研究では十分に议论されてこなかったため、いくつかの点を指摘した。

  琉球で皇帝に対する避讳による改名が确认できるようになるのは、家谱资料によると清代の康熙帝以降である。これは明代ではなく、清代に入った康熙帝の治世から避讳が厳格におこなわれるようになったという东洋史の先行研究と整合する。避讳は表奏など外交文书上だけの问题ではなく、个々人の名前にも影响を与えるものだったのである。しかし、皇帝に対する避讳は渡唐する者でかつ当代の皇帝の讳に限られていた。渡唐した际の执照において、清人に避讳をおこなっていないことを见咎められる危険性に配虑した行为として考察した。

  また、「尚家文书」の史料からは、避讳の意识は册封使の来琉に备えて强化された施策がおこなわれたことを确认した。このようにみれば、皇帝に対する避讳の影响は琉球社会の一部に留まるものであったといえる。その一方で、琉球と清の间で避讳に关する问题が発生したという记録は管见の限りない。それは、外交上では皇帝に対する避讳を意识的に彻底し、皇帝の徳化を蒙る従顺な朝贡国であることを示そうとする琉球の政治姿势のためである。

  避讳の问题は、近世琉球が中日双方の権威が复合的に重なる「场」であったことを表している。琉球には1720年代に、萨摩藩を通じて徳川将军や岛津家の人物に対する避讳が布达された。琉球ではそれを机に、琉球国王家に対する避讳についても法令が出され、法制的に整备されていく。结果的に近世琉球の避讳は、中日に対する避讳の遵守という侧面に収敛されずに、独自に新たな琉球における避讳の论理を确立していく。その论理の中には、当然これまで検讨した皇帝に対する避讳も一侧面として组み込まれていた。

  いずれにしても、本稿はあくまでも皇帝に対する避讳が琉球ではどのようなものだったのか、その基本的な点について検讨したに过ぎない。この问题はこれまでの研究では十分に论究されなかったものであるため、今后さらなる研究の深化と议论が必要である。

  参考文献

  1.麻生伸一「近世琉球における册封使歓待と自己演出―王国末期を中心に―」(『平成20年度院生班〈ヒト·モノ·思想の移动から见た文化生成の诸相〉研究成果·调査报告书』琉球大学人文社会科学研究科、2009年)

  2.麻生伸一「王国末期の册封における准备と唐人统制に关する一考察」(陈硕炫·徐斌·谢必震主编『顺风相送:中琉历史与文化―第十三届中琉历史关系国际学术会议论文集』海洋出版社、2013年)

  3.井上进「明末の避讳をめぐって」(『名古屋大学东洋史研究报告书』第25号、名古屋大学东洋史研究会、2001年)

  4.井波陵一「使えない字―讳と汉籍」(京都大学人文科学研究所附属汉字情报研究センター编『汉籍はおもしろい』研文出版、2008年)

  4.田名真之「姓氏と家谱」(冲縄県姓氏家系大辞典编纂委员会编『冲縄県姓氏家系大辞典』角川书店、1992年)

  5.东恩纳寛惇「琉球人名考」初出1925年(琉球新报社编『东恩纳寛惇全集』第6巻、第一书房、1979年)

  6.深泽秋人「近世琉球の渡唐使节をめぐる证明书群について―符文·执照·护照―」(『浦添市立図书馆纪要』no.10、浦添市立図书馆、1999年)
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