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19世纪琉中之间的贸易交涉——以尚家文书《评价方日记》为中心

  【中文提要】评价日记是指琉球专为册封贸易设置的临时官方机构“评价方”记载所有关贸易情况的日记。本文通过分析道光十八年收録于尚家文书的《评价方日记》,以此考察当时清国和琉球之间商业交易过程。

  与进贡贸易的研究积累相比,评价贸易或册封贸易的先行研究相对薄弱。评价贸易始于何时、为何“评价”发音为“hanga”,尚存在许多未解之谜。本文,试图通过具体交涉内容,着力展现当时评价贸易的实际情况以及琉中双方的策略应用。再者,深入探究以任命琉球国王为职责的册封使是如何处理评价贸易相关问题,重新审视琉球与中国间有关宗主国和属国关系的先期研究。尤其将琉球与中国交流史、交涉史研究中盛行的朝贡贸易(琉球称为进贡贸易)研究进行比较研究,重新思考进贡贸易存在意义。

  进贡贸易是琉球人前往中国进行的贸易,这是为了维持中国与琉球间关系的“仪式”贸易。然而,评价贸易却是中国人前往琉球进行贸易,双方进行商业买卖并从中获利。宗主国中国的商人和属国琉球王府间的贸易究竟如何进行?通过研究评价贸易,或许能发现中国与琉球关系中前所未见的新视点。

  【要旨】评価日记は、评価贸易の际に琉球で临时に设置される评価方と呼ばれる役所で书かれた和文体の日记である。本报告では、尚家文书に収録されている道光18年の『评価方日记』の分析を通して、当时の清国と琉球との间で行われた商取引の交渉过程について考察する。

  评価贸易に关する先行研究は决して多くなく、それは进贡贸易の研究蓄积と比较しても了然である。そもそも、评価贸易は一体いつ顷から始まったのか、なぜ「评価」を「はんがー」と発音するのかなど、いまだ明らかにされていない问题も多い。本报告では、具体的な交渉内容を通して、両者の駆け引きの様子や评価贸易の実态について迫りたい。その上で、琉球国王を任命する役目の册封使がなぜ评価贸易を行っていたのか、といった问题关心について明らかにしたいと考えている。そうすることで、従来の先行研究における琉球と中国(清国)の「宗主国と属国」の关系性を见直したい。とりわけ、琉球と中国の交流史·交渉史研究において盛んに研究されている朝贡贸易(琉球では进贡贸易という)の比较研究を行うことによって、进贡贸易そのものの存在意义を捉え直したいと考えている。

  进贡贸易は琉球人が中国へ赴いて行う贸易だが、これはあくまで中国と琉球の相关关系を维持するために「仪式的」に行われた贸易であったのに対し、中国人が琉球へ赴いて行う评価贸易は、双方が実利を伴う商売を行う点に违いがある。一体どのようにして、宗主国である中国の商人と属国である琉球の王府とが贸易を行うことができたのか。评価贸易を研究することで、これまで见えてこなかった中国と琉球の新たな关系性を见出すことができるのではないかと考えている。

  1、はじめに

  本稿は、尚家文书の『道光十八年评価方日记』の分析を通して、19世纪に琉球と中国(清国)との间で行われた「贸易」の実态を明らかにし、そこから琉清间でどのような贸易交渉が実际に行われていたのかについて解明するのが目的である。

  评価日记は、评価贸易の际に琉球で临时に设置される评価方と呼ばれる役所で书かれた和文体の日记である。本报告では、尚家文书に収録されている道光18年の『评価方日记』の分析を通して、当时の清国と琉球との间で行われた商取引の交渉过程について考察する。

  评価贸易に关する先行研究は决して多くなく、それは进贡贸易の研究蓄积と比较しても了然である。そもそも、评価贸易は一体いつ顷から始まったのか、なぜ「评価」を「はんがー」と発音するのかなど、いまだ明らかにされていない问题も多い。本报告では、具体的な交渉内容を通して、両者の駆け引きの様子や评価贸易の実态について迫りたい。その上で、琉球国王を任命する役目の册封使がなぜ评価贸易を行っていたのか、といった问题关心について明らかにしたいと考えている。そうすることで、従来の先行研究における琉球と中国(清国)の「宗主国と属国」の关系性を见直したい。とりわけ、琉球と中国の交流史·交渉史研究において盛んに研究されている朝贡贸易(琉球では进贡贸易という)の比较研究を行うことによって、进贡贸易そのものの存在意义を捉え直したいと考えている。

  进贡贸易は琉球人が中国へ赴いて行う贸易だが、これはあくまで中国と琉球の相关关系を维持するために「仪式的」に行われた贸易であったのに対し、中国人が琉球へ赴いて行う评価贸易は、双方が実利を伴う商売を行う点に违いがある。一体どのようにして、宗主国である中国の商人と属国である琉球の王府とが贸易を行うことができたのか。评価贸易を研究することで、これまで见えてこなかった中国と琉球の新たな关系性を见出すことができるのではないかと考えている。

  2、先行研究

  评価贸易に关する研究は、戦后になって本格的に着手された研究である。戦前の琉球·冲縄史研究を牵引した伊波普猷や东恩纳寛惇、真境名安兴らの先学たちは、评価贸易については断片的に言及するに止まっており、まとまった研究は行われていなかった。戦后、ようやく评価贸易研究の嚆矢となる专论が上梓されたのは、日本でも冲縄でもなく台湾であった。それは、当时台湾大学修士课程を修了したばかりの陈大端による修士论文『雍干嘉时代的中琉关系』(明华书局、1956年)で、陈は、台湾大学図书馆に所蔵されていた琉球の「评価方日记」を使い、评価贸易について概要をまとめ绍介している。现在では、陈の同书が评価贸易の金字塔的研究となっている。

  ではなぜ、台湾大学図书馆に「评価方日记」が所蔵されていたのか。それは、戦前に、台北帝国大学(后の台湾大学)に赴任した小叶田淳氏が冲縄県立図书馆馆长に委托して、同馆所蔵や尚家所蔵の琉球史料を笔写してもらい、それらを船便で台湾まで输送させたためである。1945年に小叶田ら日本人教师が台湾を引き扬げると、一部の史料群はそのまま台湾大学に残された。当时、日本ではまだ尚家文书が公开されていなかったことから、陈の著书によって评価贸易の存在が広く知られることとなった。そしてようやく、冲縄でも评価贸易研究が开始された。その先駆けは、1972年に上梓された喜舎场一隆「近世琉球における受动的贸易」(同『近世萨琉关系史の研究』国书刊行会、1993年に再録)である。喜舎场论文では、贸易品目や货币银両の调达方法、评価贸易に対する萨摩藩の姿势などが明らかにされた。ただし、喜舎场は「琉球国は、唐人(清国人)が持ち渡ってきた商品をより高値で购入するよう努めていた」と述べており、これは后述するように再検讨を要する。

  その后、1986年に台湾で中琉歴史关系国际学术会议(略称「中琉学会」)が开催されると、台湾や中国の研究者らによる研究が陆続と発表された。それらを以下、时系列に列挙してみる。

  徐玉虎「『冠船之时唐人持来品货物録』之分析」(『第一回中琉歴史关系国际学术会议论文集』中琉文化経済协会、1987年)、朱徳兰「一八三八年与一八六六年的封舟贸易」(『第三回中琉歴史关系国际学术会议论文集』中琉文化経済协会出版、1991年)、孙薇「道光十八年(一八三八)琉球国尚育への册封実态の一侧面」(『法政大学大学院纪要』第39号、1997年)、 愈玉储「三たび清代の中国と琉球の贸易を论ず-册封の过程で展开する贸易をめぐって-」(『第三回琉球·中国交渉史に关するシンポジウム论文集』冲縄県教育委员会、1996年)、 谢必震「琉球『冠船に付评価方日记』的史料価値」(『海交史研究』、1999年)。

  以上の研究は、主に清国侧による人员の派遣状况や清国人が持ち込んだ贸易品の数量分析などに重点が置かれている。中でも、1999年の谢论文は、台湾大学所蔵の「评価方日记」を绍介したものである。その后、豊见山和行「冠船贸易からみた王国末期の対清外交」(『日本东洋文化论集 琉球大学法文学部纪要』第6号、2000年)によって、琉球侧の视点に立脚した研究が行われた。豊见山论文は、评価方贸易の前段阶である册封使迎接の日记などを用いながら、详细に分析を行っている。

  2006年に尚家文书が国宝に指定され、翌年から一般公开が行われたことで、若手研究者によって次々と尚家文书の史料绍介が行われた。ただし、いずれも史料绍介に终始しており、内容分析は行われていない。

  このように、まだ绪についたばかりの评価贸易研究だが、尚家文书に収録されている评価贸易关系の史料だけでも50件近くにのぼる。これらはいずれも、断片的に绍介され言及されているに过ぎない。そこで、これらの史料を体系的に分析し、近世期に琉球が清国と行った评価贸易について、その详细な実态解明と构造分析を试みたいと考えている。

  3、史料『道光十八年评価方日记』について

  本稿で扱う『道光十八年评価方日记』は、尚家文书の第77号、第78号、第79号文书に该当する。それぞれ史料の表题に记されている正式名称は次の通りである。

  第77号:『大清道光十八年戊戌 冠船付评価方日记』(1838年闰4月15日から7月30日までの日记)

  第78号:『大清道光十八年戊戌八月より翌亥十月迄日记』(1838年8月1日から12月8日までの日记)

  第79号:『道光十八年戊戌 冠船之时唐大和御使者入目総帐 全』(物品リスト)

  他にも尚家文书には、册封使渡来前の准备日记や册封使滞在中の様子を记録した日记などが収録されているが、本稿では両国の评価贸易の様子を记録した上掲の3册を分析対象とする。また、近年、台湾大学と琉球大学が共同で翻刻·出版を実施している台湾大学所蔵の琉球史料の中に、この尚家文书の『道光十八年评価方日记』を戦前に笔写した笔写本が3册所蔵されている。それは、2017年5月に台湾大学図书馆から刊行されているが(西里喜行·赤岭守·豊见山和行编『国立台湾大学図书馆典蔵 琉球关系史料集成』第4巻)、そこには次のような表题が记されている。それぞれ、先の尚家文书第77~79号に该当するものである。

  第1册:『冠船に付评価方日记 四』/内题「道光十八年戊戌 切烂 冠船付评価方日记」

  第2册:『冠船に付评価方日记 五』/内题「大清道光十八年戊戌八月より翌亥十月迄日记 三册之内下巻 评価方」

  第3册:『道光十八年戊戌 冠船之时唐大和御使者入目総帐 全』

  台湾大学本は尚家文书の写しではあるが、この笔写本が存在したことにより、后に尚家文书の原本が虫喰いの被害に遇い、判别できなくなってしまった个所を补完することができた。よって、尚家文书と合わせて読む必要がある。

  この评価日记の内容は、道光18(1838)年5月8日から10月4日に、尚育を册封するために来琉した册封使一行と琉球の评価方との间で行われた评価贸易について、评価方役人が记録した业务日记である。评価贸易は、册封使の乗船する冠船(封舟)が来琉することで展开される贸易であることから「冠船贸易」とも称されるが、本稿では「评価贸易」の名称で统一する。

  そもそもこの「评価」の意味するところは、贸易品を検査·査定することである。実际に评価を行う役人は、那覇の亲见世役人の中から选抜されており、那覇の士族たちが勤めることが多かった。しかし、口头で清国侧との贸易交渉を行うにはやはり官话に通じた者が必要ということで、久米村士族にも临时的に评価奉行の任务が与えられていた。その具体的な内容については、后述する。

  4、『道光十八年评価方日记』にみる琉清间の贸易交渉

  道光18(1838)年に、世子尚育を册封するため、正使林鸿年と副使高人鉴ら一行が来琉した。このとき、5月8日に头号船が、翌9日に二号船が那覇に入港している。琉球到着后、册封使らは先王の谕祭礼を行うなど、册封にともなう一连の仪式を执り行っている。それと并行して、福建から琉球に持ち込まれた评価物と呼ばれる贸易品の検品·计量·査定が行われた。

  尚家文书の「评価方日记」のうち、第77号(台大本は上巻)には道光18年闰4月15日から7月30日までの日记が収録されており、第78号(台大本は下巻)には8月1日から12月8日までの日记および贸易终了后の翌道光19年の记録が数件収録されている。

  以下、その内容を见てみたい。

  (1)尚育册封について

  8月3日、世子尚育を琉球国王に任命する册封仪式が执り行われる。もともと册封使侧は、册封仪式が挙行される前の7月20日以前には一通り评価贸易を完了させたいと要望していた(6月29日条)。その理由は、评価贸易を终えて无事に册封仪式が済めば、早急に帰国できるためだという。一行の长期滞在は、琉球にとっては费用面でも负担となるため、それを軽减させたいと册封使侧は主张している。しかし実际には、10月4日に册封使が帰国のため乗船する当日まで评価贸易は行われている。

  册封仪式终了后の8月4日と5日は、琉球·册封使节一行の双方とも式典の事后対応に追われていたためか、この间の日记はない。8月6日以降、评価贸易に关する交渉が频繁に行われるようになる。

  (2)评価贸易で册封使节侧に支払われる琉球银子の换算率について

  琉球银子の换算率について、银一贯目に対し蕃銭86枚四分の换算にして欲しいとする要请が船主たちから出された。それを受けて评価方は、久米村役人に汉文で禀(要望书)を清书させて册封使へ提出している(8月7日条)。その禀には、次のような琉球の主张がなされている。①通常、福建価格を参照して银一贯目を蕃銭114枚(元)前后で兑换しているが、时価の変动により110元(枚)を基准としていること、②琉球银子の印号は国法で制定されており、毎年流通しているものであること、③そのため今回に限り换算率を変更することは难しいこと、④何より、银子の换算率は福建での贸易によって决定されるため、それを信用できなければ、双方间の公平な取引は保障できないこと、⑤よって、银子は福建価格で换算して船戸たちに引き渡し、船戸らはそれを帰国后に蕃銭に清算して、もとの银子を琉球に返却すれば双方にとって有益である、としている。

  琉球侧の意见を闻いて、册封使は四日后の8月11日に次のように回答している。「公平に斟酌すれば、船戸が感情に任せて蕃銭を少なく见积もることは许さないし、琉球の评価司が思惑によって蕃銭を钓り上げることは许さない。また、评価司の言うように福建で再决算した场合、他人の手が入り、かえって悬念される。闻くところによると、琉球银は蕃銭にして百七、八枚にすぎないという。それを114枚とするのは认められない。よって、前回の册封时の谕示に従い、琉球银百両に対し蕃銭百枚とする」。册封使は2ヶ月経ってもなお决着をみない换算率问题について、速やかに解决するよう両者を厳しく叱责している。そして、3日以内に誓约书を提出するよう琉球侧へ指示している。しかし、琉球はその期限を守ることができず、业を煮やした册封使は8月18日に「银子1贯目につき蕃銭105枚とする」という结论を出している。それでも、福建に持ち込まれた琉球银が、现地时価での清算によって最终的に差额を生じる场合、评価司の魏学源が弁偿することで落着した。

  (3)苏木·明矾·滑石を评価方が买い取るか否かについて

  8月6日、船主たちがやってきて、苏木·明矾·滑石を买い取るかどうか闻いてきた。それに対し琉球は、当初の値付け通りであれば买い取ると返答したが、船主たちは纳得しなかった。そこで评価司は、首里の表御方と三司官の小禄亲方に相谈し、禀を作成して天使馆へ提出した。すると、册封使から明矾·滑石は评価方が决めた価格で买い取ること、苏木は一枚値上げして银子七枚で买い取ることを指示されたので、评価司は再度小禄亲方に相谈してようやく承诺した。

  (4)评価方による船主たちの残品の买い取りについて

  8月19日に阿口通事2人が评価方に派遣されてきた。そして、头号船·二号船の船主たちの残品を评価方で买い取って欲しいとの册封使の要望が阿口通事から伝えられた。それを受けて评価司たちは小禄亲方と相谈し、评価方には银子がないとの理由で辞退することにした。しかし清国侧は「残品を处理しなければ帰国の支障となる。福建相场よりも安くし、二割増しを免除するので买い取って欲しい」と譲らなかった。琉球侧は再度协议し、翌日、「胁方で人物を见极めて买い取る」とする决定を册封使侧に伝えた。

  (5)胁评価物である昆布の売买について

  8月1日に头号船と二号船の船主たちは、それぞれに昆布を15万斤ずつ売って欲しいと要望した。その后、昆布をめぐる値段交渉が何度も行われた。8月19日、両船の船主たちが评価方へやってきて昆布百斤の値段を寻ねると、评価司は蕃銭13枚と答えた。翌20日、船主たちは蕃銭4枚にして欲しいと申し出てきたのに対し、评価司は蕃銭12枚であれば考虑すると返答した。なかなか决着がつかない状况をみて、翌21日に册封使は「蕃銭13枚は高すぎる。もう少し相応に考えて欲しい」と琉球侧に要请した。それを受けて琉球は22日に协议し、九枚で売り渡す决定を下した。24日は重阳の宴が挙行されたため、25日に册封使侧へそれが伝えられた。それでもまだ纳得しない船主たちに対し、琉球は9月2日に8枚5分で売ってもいいと妥协案を提示した。すると、4日に「5枚までなら买い取る」とする船主の意见が出された。対する琉球は「7枚までなら売り渡せる」として譲らなかった。ついには册封使が解决に乗りだし、7日に告示を出した。それには、双方の间をとって昆布百斤につき蕃銭6枚とする、という决定が记されていた。これにより、ようやく昆布の値段交渉は决着した。その后、両船の船主たちから昆布をさらに6万斤买いたいとする要望が出されたが、その件は速やかに处理されている(9月23日条)。こうした様子を见计らってか、9月30日には册封使両人からも昆布1万3000斤を买いたいとの要望が出されている。すでに値段が决定していたこともあり、昆布の追加注文は问题なく处理され、帰国间际の10月2日にも册封副使の高人鉴が昆布を约1万斤购入している。最终的に、船主へ売り渡した昆布は、头号船でおよそ17万5619斤、二号船でおよそ16万9880斤であった。

  このように、评価物の売买に际して、船主侧と琉球侧(评価方)との间で几度となく交渉が行われ、决裂した场合には、册封使が仲介役となって问题を解决させていたことが分かる。また、评価贸易の取引が一通り完了しても、その后で个々人が琉球に持ち込んできた商品をなんとか最后まで琉球に売りさばこうと奋闘している様子が窥える。

  本来、船主らが持ち込む唐物については厳しく取り缔まりがなされ、禁制品を持ち込んだり、密売买をしてはならないと定められていたが、现実には必ずしも守られてはいなかった。それでも、正规の评価贸易で取引できない商品は胁评価方で売买するなど、琉球侧は柔软に対応していた。しかし、琉球侧が最も悬念していたことの一つに、评価贸易によって琉球人が入手した唐物が密かに鹿児岛へ渡り、大和へ密输されてしまうことにあった。もしそうなれば、萨摩の密输禁令に扺触することになり、琉球にとっては国家の一大事となってしまう恐れがあった。そうならないためにも、唐物は必ず琉球国内で消费することが义务付けられていた(闰4月21日条)。

  册封使滞在中、萨摩の在番奉行は城间村に退去していたが、その在番奉行が评価物に关して意见を述べている记述がわずかに见られる。それは清国制の朱墨に対してであった。前后の経纬は不明だが、清国から入手した朱墨を评価方主取が城间の御在番所へ运び、在番奉行に差し出したところ、「清国の朱墨は萨摩制のそれよりも质が劣るので使えないが、全く使えないわけではない」と所见を述べている(8月22日条)。それ以外で、贸易や银子换算などの取引内容に关して在番奉行が直接介入する様子は见られないが、琉球が购入した商品の帐簿(买い立て帐)の写しは在番奉行と萨摩の唐物方へも提出されている(10月23日条)。

  10月12日に册封使一行は那覇を出港し帰国した后にも、评価方では帐簿作成などの彻夜作业に追われていた。评価方は、表御方へ提出する実情通りの帐簿のほか、萨摩向けの価格を记さない帐簿も作成していた。10月30日付けの「评価御物买立帐」の帐簿は前者で、それには头号船·二号船のほか、册封使や船主个人から琉球が买い取った商品名と価格が明记されている。中には、伪物と判断されたり、高额であることを理由に琉球が买い取りを拒否した商品もあった(11月6日条)。

  本日记の末尾には、今回の评価贸易において尽力した评価方系りの者たちの勤功を认めて欲しいとする要望书が载せられている。中には、先述した昆布の売却において活跃した者も含まれていた。

  5、评価贸易における久米村士族の役割

  最后に、本史料から见える久米村の役割について述べたい。

  评価贸易において、清国(册封使侧)から琉球の评価所へたびたび指示や要请が出された。これらはすべて汉文で书かれた文书で通知されたのだが、それは直接评価役人へ渡すのではなく、清国の船主たちへも周知させる目的で、天使馆の东门前の掲示板に贴り出されていた。こうした汉文による告示が掲示されると、まず评価方役人(评価司)がその存在を确认し、それから久米村の评価奉行に命じて全文を书き取らせる。その汉文をさらに和文に直してから评価主取へ提出し、评価主取から首里の三司官へ提出した。このように、评価贸易において常に汉文と和文の翻訳を担っていたのが久米村士族であった。また、评価贸易は评価役人と册封使との间で交渉がなされるが、その际、実际に言叶を交わしていたのは册封使付きの通訳である河口通事(史料では阿口通事と记される)と、久米村の评価奉行であった。ただし、久米村评価奉行の役割は両者の桥渡しの侧面が强く、久米村评価奉行が贸易交渉において独自に判断したり、意见を出すことはほとんど见られない。それらはすべて那覇の评価役人たちで话し合われ、裁量されていた。

  本日记において特に注目すべき久米村士族は、魏学源である。彼は、琉球での评価贸易が终了した后にも福建へ渡り、その后の経过を见守る役目が与えられていた。船主たちが帰国后、何か贸易における问题が生じた场合、それが琉清间の纷争に発展することを恐れた王府は、万一の事态に备えて魏学源を福州に派遣していたのである。日记にも记されているように、特に船主たちと取り引きした货币の银両に关して、琉球の提供価格が低すぎると后々问题になることを忧虑し、その场合は魏学源に银両を补填させることで対策を练っていた。

  このように、久米村は王府内で协议される交渉内容を直接册封使たちに伝えるなど、19世纪においても対清关系の主轴となっていた。それは、官话はもちろんのこと、彼らの交渉力を王府が评価していた证左であろう。また、评価物の値付け帐を久米村でも保管していたことから伺えるように、久米村は常に清国の状况を分析·検讨し、その情报を蓄积していたと考えられる。魏学源はかつて渡清して『大清律例』を学び、帰国后に『新集科律』を编集した経験を持つ人物である。中琉间の交渉を担う中で、清国について様々な知识を得て、それを琉球にも活かしていたことが伺える。

  6、まとめ

  琉球と清国との间で交わされた汉文文书は、册封使一行が渡航する前から、福建において出されていた。その内容をみると、実际に発生した过去の事件(押し売り问题、借金问题など)を引用し、处罚された前例を挙げ、琉球侧の迷惑とならないよう命じるものであった。

  琉球到着后、不正をした船戸たちを取り缔まるのは弾圧官の役割ではあったが、実际に判断を下して问题を解决に道いたのは册封使であった。提示価格が高いと主张する琉球に対し、「船戸たちは船を借り上げるなど借金をしているのでそれくらいは认めてあげてほしい」と情状酌量の要请をすることもあった。一方、船戸たちに対しては「皇帝の远人(=琉球)を懐柔する意向を汲み取って譲歩せよ」との达しが出されている。

  このように、评価贸易は、外藩に皇帝の権威を示す册封仪礼とは异なり、双方とも実利を优先してお互いに譲ることはなかった。それでも、册封使が示す「皇帝の至意」によって间を取って判断を下していたことは、评価贸易が単なる商売行为ではなく、清国と琉球という「宗主国と外藩」との关系を包含した取り引きであったことを示している。汉文文书からは、最后まで船戸と评価司が直接交渉せずに、必ず册封使を介していたこと、最后になって始めてお互いに誓约书を直接交换したことが分かる。つまり、评価贸易は、册封使による「礼」と「中庸」の概念の中で、琉球と清国(福建)の利を交换する贸易だったと言えるのではないだろうか。なぜなら、喜舎场氏の言うような「琉球国は、唐人(清国人)が持ち渡ってきた商品をより高値で购入するよう努めていた」のではなく、むしろ琉球侧に利が出るよう交渉を进めていたからである。それこそが、进贡贸易と评価贸易の违いではないだろうか。

  参考文献

  (1)陈大端『雍干嘉时代的中琉关系』(明华书局、1956年)

  (2)TA-TUAN CH’N(1963)SINO-LIU-CH’IUAN RELATIONS IN THE NINETEENTHE CENTURY:The Doctor of Philosophy degree in the Department of History, Indiana University

  (3)陈大端『雍干嘉时代的中琉关系』(明华书局、1956年)

  (4)喜舎场一隆「近世琉球における受动的贸易」(同『近世萨琉关系史の研究』国书刊行会、1993年)

  (5)徐玉虎「『冠船之时唐人持来品货物録』之分析」(『第一届中琉歴史关系国际学术曾议论文集』中琉文化経済协曾、1987年)

  (6)朱徳兰「一八三八年与一八六六年的封舟贸易」(『第三届中琉歴史关系国际学术会议论文集』中琉文化経済协会出版、1991年)

  (7)孙薇「道光十八年(一八三八)琉球国尚育への册封実态の一侧面」(『法政大学大学院纪要』第39号、1997年)

  (8)愈玉储「三たび清代の中国と琉球の贸易を论ず-册封の过程で展开する贸易をめぐって-」(『第三回琉球·中国交渉史に关するシンポジウム论文集』冲縄県教育委员会、1996年)

  (9)谢必震「琉球『冠船に付评価方日记』的史料価値」(『海交史研究』、1999年)

  (10)豊见山和行「冠船贸易からみた王国末期の対清外交」(『日本东洋文化论集 琉球大学法文学部纪要』第6号、2000年)
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