【中文摘要】中国皇帝于康熙57年(1718年)6月1日任命海宝、徐葆光为册封正、副使,率团前往琉球为其新王尚敬进行册封。海、徐两人于康熙58年6月1日,扺达琉球那霸港;完成册封任务之后,于康熙59年2月16日离开琉球,返回中国;同年7月11日,在热河避暑山庄向皇帝复命。
徐葆光奉使琉球,将出都门之时,侍讲郑任钥为其送行,郑熟知琉球事,因问琉球人才,郑首以大夫程顺则为对。因此,虽在琉球和程顺则初次见面,但徐葆光却有如与故友相逢之感。再者,对徐葆光而言,受命为册封副使、踏上往返超过7600公里的旅程、在琉球长达252天的停留,这些都起因于蔡温为了尚敬王请封之事而向礼部执事官员的申辩,也就是说,蔡温正是让徐葆光与琉球相连结的重要人物。
本论文通过徐葆光的诗作、琉球方面的家谱资料等相关史料,选定与徐葆光关系密切的程顺则和蔡温,试图解明他们与徐葆光的交流情形,从而窥见徐葆光停留琉球期间的动向之一斑。
【关键词】琉球;册封使;徐葆光;程顺则;蔡温
【要旨】中国皇帝は、康熙57年(1718年)6月1日に、海宝と徐葆光を正副使として琉球へ遣わし、尚敬を国王に封じる命を下した。海宝と徐葆光は、康熙58年6月1日に琉球の那覇港に到着している。册封の任务を遂行して、252日という歴代册封使中最长の期间琉球に滞在してから、康熙59年2月16日に那覇を出港し、中国に帰国している。そして、同年7月11日に、热河の避暑山荘において康煕帝に帰国复命の谒见を行っている。
徐葆光は、北京を出る前に、すでに郑任钥という人物から程顺则のことを聴いていたため、琉球で初めて出逢ったのに、まるで旧友と逢ったような思いがする。なお、册封副使に任命され、北京·那覇间往复の7600kmを超えている旅に就き、それから252日にも及んでいる琉球に滞在することは、言うまでもなく、蔡温の尚敬に対する请封を求める弁明に起因する。つまり、蔡温こそが徐葆光と琉球とを强く结びつけた重要人物であった。
本论は、徐葆光の书いた诗や琉球の家谱资料など关连资料を通して、徐葆光と关系の密切な人物である程顺则と蔡温を选定し、彼らと徐葆光との交流についてを解明することにする。それを通して徐葆光の琉球滞在中の动向の一斑を窥い见る。
【キーワード】琉球;册封使;徐葆光;程顺则;蔡温
一、はじめに
康熙48年(1709年)7月13日に琉球国中山王の尚贞が薨去し、世子の尚纯が父に先だって卒去したため、嫡孙の尚益が王位を継いだ。しかし、その尚益も康熙51年(1712年)7月15日に33歳で薨去している。即位后3年间、请封をしていなかった。その后即位した尚敬は、同年の11月、父の尚益の告讣をし、康熙55年(1716年)10月に、进贡使节を派遣し请封を行っている。それに応じて、皇帝は、康熙57年(1718年)6月1日に、翰林院検讨の海宝と、编修の徐葆光(1671-1740)を册封正·副使として遣わし、尚敬を国王に封じる命を下している。これは、康熙2年(1663年)の张学礼·王垓の第一回、康熙22年(1683年)の汪楫·林麟焻の第二回に次いで、清朝における第三回目の琉球册封であった。
册封正·副使の海宝と徐葆光は、康熙58年(1719年)5月20日に、诏敕を奉持し、登舟した。22日に、潮に乗じて五虎门を出て开洋し、7日间の航海を终え、无事に那覇港に到着し、迎恩亭で琉球侧の歓迎を受けて、天使馆に入居している。この日から、徐葆光はおそらく、彼自身も思いも寄らなかった、252日间という长期间にわたって琉球に滞在することになった。
册封の任务遂行后、252日という歴代册封使中最长の琉球滞在を行った海宝と徐葆光一行は、康熙59年2月16日に那覇を出港し、中国に帰国している。そして同年7月に热河の避暑山荘において康煕帝に帰国复命の谒见を行っている。その后、徐葆光は琉球での册封に关する记録を作成し、それらを『中山伝信録』、『奉使琉球诗』として刊行している。
徐葆光は『中山伝信録』の「自序」で、歴代の歴史书やこれまで上梓された册封使録类には、琉球に关わる记载の误记が多く、正确な情报が伝えられていないことから、敢えて自ら『中山伝信録』を着すこととしたと述べている。清代の実证学に依拠した事象を伝えることに重点を置いた该书は、「册封使録の白眉、琉球の百科事典」と称されている。『中山伝信録』の记述内容は、册封时の公务に依拠する行动を重视する叙述が多いが、そこには徐葆光自身の経歴や个人的な心情及び北京-琉球间往复时の详细な旅程状况は明记されていない。
一方、『奉使琉球诗』は、「舶前集」「舶中集」「舶后集」の三部からなり、「舶前集」は康煕57年(1718年)6月1日に北京で册封使としての任务を拝命してから、康煕58年5月22日に福州の五虎门を出航するまでの作品、「舶中集」は五虎门を出航してから6月1日に那覇港に到着し琉球を去るまでの作品、「舶后集」は、康煕59年2月16日に那覇を出港から帰国后の作品がそれぞれ収められている。全书は、汉诗405首収録されている。これら『奉使琉球诗』に収録されている汉诗には、『中山伝信録』では知られない徐葆光の册封使という职务を通じての対琉球観が反映されており、そこから徐葆光自身の当时の心情や、徐葆光の见た琉球の现状を同时代的に知ることができる。
『奉使琉球诗』に収録されている汉诗作品を见ると尚敬王以外にも、徐葆光と作品の赠答をしている王府役人は少なくない。例えば、国相王叔尚佑、王弟尚彻、国丈毛邦秀、法司翁自道、陈其湘、红士显、蔡温、程顺则、阮维新、蔡文溥、蔡肇功、梁鼎、郑秉哲、郑谦、向凤彩、何文声等で、その他にも『中山伝信録』には法司向圣赓、王可法、向嗣保、毛弘健、毛光弼、阮瓒、梁得宗等の名が见える。
人数が多く、これらの人物と徐葆光との交友关系を逐一绍介することはできない。ここでは、特に徐葆光の汉诗の中に现れた关系の密切な人物である程顺则と蔡温を选定し、绍介することにする。またそれを通して徐葆光の琉球滞在中の动向の一斑を窥い见る。
二、徐葆光と程顺则との交流
『程氏家谱(六世 程泰祚)』「七世隆勲紫金大夫加衔法司正卿讳顺则」条(以下、「程顺则家谱」を称す)によると、程顺则(1663-1735)は、都通事程泰祚の长男で、童名は思武太、字は宠文、号は念庵である。康熙2年10月28日亥时に生まれ、雍正12年12月8日戌时に没している。享年72歳である。
程顺则は康熙13年に若秀才、15年に秀才、22年に通事、34年に都通事、43年に中议大夫、45年に正议大夫、54年に紫金大夫、総理唐栄司(久米村総役)の职に就任している。
程顺则は下记のように、生涯に5回の渡唐の旅を経験している。①康熙22年(1683年)9月、「勤学」として福州に赴き、翌年の春、北京へ行き冬に福州に戻り、福州で4年间滞在している。②康熙28年(1689年)、接贡存留通事として闽に赴き、福州の琉球馆で3年间滞在をしている。その际、闽(福建)で25金を出して、『十七史』を全1592巻购入し、琉球の孔子庙に献じている。③康熙35年(1696年)、进贡のために、进贡北京大通事として闽に赴き上京し、康熙37年に帰国している。この旅でその代表作である汉诗集『雪堂燕游草』を刊行している。④康熙45年(1706年)、进贡のために、进贡正议大夫として、闽に赴き上京し、康熙47年3月に福州に戻り6月に帰国している。闽に滞在中、60金を出して、范鋐の『六谕衍义』を版行し、また自着の福州·那覇の往复する航海针路の指南书である『指南广义』を上梓している。⑤康熙59年(1720年)、2月16日に、谢恩と贡物の献上のために、法司王舅向龙翼と共に「常年贡船一号」に乗船し、二只の封舟と共に、那覇を开船し、2月29日定海に至り、30日五虎门に入っている。また、4月12日琉球馆を立ち北京に赴き、谢恩·进贡している。康熙60年2月8日、福州に戻り6月11日に那覇に帰港している。北京から福州に戻る途中の江南で、『皇清诗选』(全三〇巻)を数十部购入して持ち帰り、王府の书院や评定所及び久米村の孔子庙等に纳め、残りは师友ら寄赠している。
程顺则には多くの著作がある。彼は中国の重要な歴史书と诗集を琉球に持ち帰り、中国の文化を琉球に伝えることにも贡献している。
なお、周煌『琉球国志略·卷十三·人物·文苑』には、「程顺则,字宠文,久米村人。勤学励志,言行交修。位紫金大夫,爱民洁己,不营宠利,年七十余,卒之日,书籍外,无余赀,国人至今犹争道之。所着有『燕游草』、『中山官制考』。」(程顺则、字は宠文。久米村の人である。学问に努め、志を励まし、言行ともに修め、紫金大夫の官に任ぜられた。民を慈しみ、自己に対しては洁白で、特别の恩宠を得ようなどとはしなかった。七十余歳で卒した时、书籍の外には、余财は无かった。この国の人は、今でもなお、竞って褒めている。著书に『燕游草』、『中山官制考』がある。)と、程顺则の人格を高く评価している。
(一)初対面
徐葆光は、『奉使琉球诗·舶中集』に、程顺则との二人の初対面の情景を以下のように描いている。
◎陪臣朔望至馆起居.赠紫金大夫程顺则【字宠文.工诗.前充贡使至京.有燕台集】
(陪臣朔望に馆に至りて起居し、紫金大夫程顺则に赠る【字は宠文、诗をみにし、前に贡使にてられに至る。燕台集有り。】)
海外初逢有故情, 海外に初めて逢い 故情有り
当年軄贡日边行。 当年の职贡 日辺に行く
旧游曾赋皇居壮, 旧游曽て赋す 皇居の壮なるを
朝士犹传白雪声。 朝士犹お伝う 白雪の声
异域相亲惟使日, 异域相い亲しむは 惟だする日のみ
重溟难隔是诗名。 重溟隔て难し 是の诗名
紫巾鹤发来迎客, 紫巾鹤发 来たりてを迎え
众里知君心已倾。 众里君を知りて 心已に倾く
【通釈】
海外(琉球)で初めて出逢ったのに、まるで旧友と逢ったような思いがする。その当时、あなたは进贡のために帝都の北京へ行かれた。かつて访れた皇居(北京城·紫禁城)の壮大さを诗に咏み、今でも朝廷の官吏らは、あなたの咏んだ阳春白雪の曲のような高尚な优れた诗を伝えている。
远く离れた中国と琉球にいる私とあなたは、お互いに亲しく交われるのは、ただ私が使节として滞在している日々だけである。大海に隔てられていても、あなたの诗人としての高い名声が阻まれることはない。(あなたは琉球の高官として)紫巾を被り、鹤の羽毛のような真っ白な发のあなたが客である私を迎えに来てくれた。众人の中に、あなたがいることを知って、私は嬉しくて心が动いた。
【分析】
程顺则は陪臣として、毎月1日と15日に天使馆へ至って册封使のご机嫌伺いをしている。この诗はご机嫌伺いで天使馆を访れた紫金大夫程顺则に赠った诗である。
徐葆光は、『奉使琉球诗』を编集する际に、作品を时间轴をもって排列している。この诗は、「舶中集」所収の8番目の诗で、その前の5番目の诗は「六月朔.封舟达那霸港.午后.奉册至使馆.倾国士女罗拜迎恩亭下.口号四首」で、また、その后の11番目の诗は「六月二十六日.谕祭中山故王尚贞.尚益.礼成恭纪二十四韵」である。ゆえに、この诗は、恐らく、6月1日から6月26日の间に书かれたものとして判断していいだろう。なお、陪臣が天使馆へ至って册封使のご机嫌伺いにする日は、毎月の1日と15日である。とすると、徐葆光と程顺则との初対面は(康熙58年)6月15日であったという推测をしても大过はないだろう。
この诗を通して、徐葆光は、程顺则との初対面の情景を描写し、自分が程顺则に心を寄せていたことを述べている。
诗の内容について、更に一歩进めた说明しなければならないところがいくつあり、先ずは、诗の1句目である「海外初逢有故情」で、徐葆光は、今回海外(琉球)で出逢ったのが初対面であると述べている。それなら、何故、旧友のようだと、书いたのであろう。
実际に、徐葆光は渡琉する前に、すでに程顺则のことを知っていた。「程顺则家谱」によると、程顺则が所有する「朱文公墨宝」の轴に、徐葆光の书いた「跋」には、
戊戌之秋,余奉使中山,将出都,候官郑侍讲任钥送余,郑素熟中山事,余问中山人才,侍讲首以大夫程君顺则宠文先生为对,且云:大夫前充贡使,入都,工诗文,善著作。
とある。徐葆光は北京を出る前に、すでに郑任钥という人物から程顺则のことを聴いていた。郑任钥は、程顺则は诗·文ともに优れていて、よい著书を刊行していると褒め称えている。そうした理由から、徐葆光は初対面であるのにもかかわらず、旧友のようだとは言ったのであろう。
次に、2·3句目の「当年軄贡日边行、旧游曾赋皇居壮」における「当年軄贡日边行」は、恐らく、程顺则の三回目の渡唐の旅を指すのだろう。程顺则は、康熙35年(1696年)、进贡のため进贡北京大通事として闽に赴き上京し、康熙37年に帰国している。また、「旧游曾赋皇居壮」とは、この旅で彼の代表作である『雪堂燕游草』という汉诗集を刊行し、皇居(北京城·紫禁城)の壮大さを咏んだことを意味している。
なお、7句目の「紫巾鹤发来迎客」において「紫巾鹤发」と、徐葆光は初めて会った程顺则の外见をすごく具象的に描写している。
最后に、8句目の「众里知君心已倾」で、徐葆光は、ご机嫌を伺いに来た众人の中に、程顺则がいることを知り、非常に喜んでいる。徐葆光は、郑任钥から程顺则のことを聴いていたから、程顺则とは是非会いたいと思っていたであろう。49歳の徐葆光と57歳の程顺则との初対面、徐葆光の当时の嬉しさがよく伝わってくる诗句である。
(二)程顺则から盆松を贳った
『奉使琉球诗·舶中集』には、さらに一首、徐葆光が程顺则に赠った诗が収録されている。程顺则から盆松を贳ったことに対する感谢の気持ちを込めている诗である。
◎紫金大夫程顺则送盆松报谢一首
(紫金大夫程顺则が盆松を送り、谢を报ず一首)
虬枝蟠盎亦森森, 虬枝蟠盎 亦た森森として
移置墙隅古色侵。 墙隅に移置すれば 古色侵す
萧洒恰为闲客伴, 萧洒として恰も为る 闲客の
青苍已见大夫心。 青苍として已に见る 大夫の心
空庭谡谡卷虚籁, 空庭谡谡として 虚籁を巻き
拳石疎疎得好阴。 拳石疎疎として 好阴を
満地緑苔新扫遍, 地に満つ緑苔 新たに扫くこと遍く
迟君月夕共横琴。 君をつ月夕 共に琴を横たう
【通釈】
を巻いている枝が植木钵に満杯になり、森々として茂っている。垣根の一隅に移し置くと古雅の意趣が出て来た。潇洒として、恰も悠々闲々たる客(わたし)の伴となる。青苍として、大夫の志が现れている。
人がいない庭に、劲风が松に吹いて、微かな响きが闻こえてくる。ぽつぽつと散らばっている拳のような石が好い荫を得ている。満地の緑苔を新たに隅から隅まで扫除をした。あなたを待ち、月夜に共に琴を横にして弾く。
【分析】
诗题の「紫金大夫程顺则送盆松报谢一首」は、紫金大夫の程顺则が松の盆栽を送り、感谢を表す一首という意味である。
诗の前半の4句において、「虬枝」·「森森」·「古色」·「萧洒」·「青苍」などの形容词は共に、この植木钵に植えている松の様子を描写している。
6句目の「拳石疎疎得好阴」は、植木钵に植えている松から视线を移して、この茂っている松の下には、拳のような石がぽつぽつと散らばり、好い荫を得ていると言っている。この诗句を通して、程顺则が徐葆光に赠った松の盆栽の様子がわかる。徐葆光は、大の植物好きであったようである。それを知った程顺则が手塩に挂けて育てた盆栽を赠ったのであろう。
8句目の「迟君月夕共横琴」において、「迟」という言叶は、ここでは、遅れることではない。待つことである。徐葆光は、程顺则に、明月のある夜に一绪に琴を横にして弾くことを诱う。琴を弾くことも文人の嗜みとしてこなす人は少なくなかった。徐葆光もその一人であろう。ここで、注意しなければならないのは、琴を弾くという行为ではない。程顺则を自分の部屋に招こうとした意思である。徐葆光は北京で程顺则の名声をすでに知らされていた。会いたいと思っていた人である。当时、程顺则は総理唐栄司(久米村総役)として、天使馆における応接役を命じられていたことから、天使馆で徐葆光にあう机会は多かったはずである。それでも程顺则をあえて招きたいというのだから、徐葆光自身が招きたいと思った背景には、まちがいなく文人程顺则との交友を深めたいという思いがあったからに违いない。この诗句からは、徐葆光の程顺则に対する思いの深さが伝わってくる。
(三)最后の対面
徐葆光と程顺则の二人は琉球において深く交流していた。徐葆光が琉球を离れる际、程顺则は亲交のあった徐葆光へ送别の诗を赠っている。
册封の任务遂行后、252日の琉球滞在を行った海宝·徐葆光が率いる册封使団は康熙59年(1720年)2月16日に、二只の封舟に乗って、那覇を开船したことは上述した。同时に、首里王府は谢恩と贡物の献上のために、法司王舅の向龙翼と紫金大夫の程顺则を中国に派遣している。程顺则らは、常年の贡船一号に乗って、二只の封舟と共に、那覇を开船し、康熙59年2月29日、定海に至り、30日、潮に乗じて五虎门に入り、怡山院に到着した。
その后、福州の柔远驿に入居している程顺则は、3月20日に徐葆光の帰京を见送っている。琉球滞在时より亲交のあった二人は、ここで一旦别れることとなるが、程顺则が滞りなく皇帝へ谢恩と贡物を献上する任务を遂行し、帝都北京を离れる直前の康熙59年10月16日に、徐葆光と一度だけ再会し、10首の送别の诗を赠られている。
以下では、この10首の诗の通釈と分析を试みるが、まずは第5回目の渡唐の旅となる今回の、程顺则の全旅程を见てみる。
「程顺则家谱」によれば、康熙59年(1720年)2月16日に、法司王舅の向龙翼冨盛亲方朝章と共に、冠船に随行して那覇を开船し、同月29日に三只の舟は定海に至り、30日、潮に乗じて五虎门そして怡山院に到着している。3月2日には闽安镇を経由して、同月8日、福州の柔远驿に到着し、20日、天使の帰京を见送っている。26日、布政司の紫微堂で宴を受赐した后、4月12日、柔远驿を出発、8月11日都门に入り、同月12日に礼部へ赴き表文を奉上し、9月22日、贡物を献纳している。10月16日皇城に登り、午门の前で皇帝から惯例通り赏赐を受け、同日、礼部で下马宴·上马宴を受赐した后、20日、敕书を受领し福州へ向けて出発した。约3か月半かけて、康熙60年(1721年)2月8日、柔远驿に到着している。5月24日、柔远驿を离れ乗船し、6月7日五虎门を経由して同月11日那覇に入津、そして13日に皇帝の敕书を国王に捧呈して复命を终えている。
程顺则は康熙59年3月20日、福州にて徐葆光らの帰京を见送り、琉球滞在时より亲交のあった二人は、ここで一旦别れることとなるが、同じく帝都北京へと赴くことから、别れの际、北京での再会を誓い合ったことであろう。続いて、长い道程を経て北京に辿り着いた程顺则は、公务が多忙を极め、且つ惯例による规则のため、宿である馆駅に残り、胜手な外出が许されることはなかった。そのため、徐葆光が程顺则の访问を日々望んでも、その愿いは叶うことがなかった。程顺则は公务の全てが终了すると、北京を离れる直前、自らが所有する「朱文公墨宝」の轴に対する「跋」を徐葆光に求めるため、通事の郑君を徐葆光の寓所へと派遣している。そして遂に、「跋」の书かれた康熙59年10月15日の翌日、二人は7か月ぶりに再会を果たすこととなる。
程顺则は北京に滞在した8月11日から10月20日の间に、この10月16日に一度だけ徐葆光と再会し、10首の送别の诗を赠られている。
徐葆光は、この10首の诗を『奉使琉球诗·舶后集』に収録しているが、诗の创作に关する日付は记载していない。一方、程顺则は自身が编集した『中山诗文集』中に、この10首の诗を『赠言』という诗集名で収録している。収録されている诗题に「康熙庚子十月望后一日.雪堂程大夫礼成归国.小诗数篇.奉送出都.并求教正」とあることから、诗を赠った日が「康熙庚子十月望后一日」(康熙59年10月16日)であることが分かる。なお、「程顺则家谱」には、10首のうち8首のみ収録(「其の六」と「其の八」を除く8首)されており、诗题も同様に「康熙庚子十月望后一日.雪堂程大夫礼成归国.小诗数篇.奉送出都.并求教正」と记载されている。
以下に、この10首の诗に通釈を加え分析を试みる。
◎送琉球谢封使紫金大夫程顺则归国十首
(琉球の谢封使紫金大夫程顺则の帰国するを送る十首)
(その一)
君是中山第一流, 君は是れ中山の第一流
衔书重上帝王州。 书を衔み重ねて上る 帝王の州
琼河一棹燕京路, 琼河一棹 燕京の路
重数山川总旧游。 重ねて山川を数うるに 総て旧游たり
(その二)
由来东国解声诗, 由来东国 声诗を解し
肯让朝鲜絶妙词。 朝鲜の絶妙の词に肯譲す
一巻燕游増后集, 一巻の燕游 后集を増し
星槎收尽域中奇。 星槎尽く域中の奇を収む
(その三)
雪霁胥江卷冻云, 雪霁の胥江 冻云を卷き
寒原荒草指孤坟。 寒原の荒草 孤坟を指す
殊郷上冡无前事, 郷上冡を殊つに 前事无く
光贲重泉只见君。 光贲の重泉 只だ君に见ゆ
(その四)
鹿毛秃砚富如林, 鹿毛秃砚 富むこと林の如く
东望沧溟雅化深。 东のかた沧溟を望むに 雅化深し
学校振兴官制备, 学校は振兴し 官制备わり
数篇著作史家心。 数篇の著作 史家の心
(その五)
归指沧溟东复东, 帰るに沧溟を指すこと 东して复た东す
毫厘千里在盘中。 毫厘千里 盘中に在り
好乘六月南熏便, 好く六月の南熏の便に乗り
认取东南针上风。 认取す东南 针上の风
(その六)
二至灵风送海门, 二たび至る霊风 海门を送り
神庥此日荷新恩。 神庥此の日 新恩を荷う
怡山院里春秋祭, 怡山院里 春秋の祭
盛典颁行久米村。 盛典久米村に颁行す
(その七)
卅载英才作国宾, 卅载の英才 国宾と作り
代将寸牍上枫宸。 代わりて寸牍を将って 枫宸に上る
观光天上成材易, 天上を観光すれば 材と成ること易く
好遣家驹歩后尘。 好く家驹を遣わし 后尘を歩ません
(その八)
阳月犹覊归客船, 阳月犹お帰客の船を覊ぎ
鸿胪宣赐捧新编。 鸿胪赐を宣べ 新编を捧ぐ
煌煌正朔颁东海, 煌煌たる正朔 东海に颁し
宝暦初周六十年。 宝暦初めて周る 六十年
(その九)
风度翛然岸紫巾, 风度翛然として き紫巾
阙门捧币受恩频。 阙门币を捧げ 恩を受くること频りなり
礼成重上容台宴, 礼成りて重ねて容台の宴に上る
十五年前旧使臣。 十五年前の旧使臣
(その十)
半年揽尽海东奇, 半年揽し尽くす 海东の奇
五岳新图尽在兹。 五岳の新図 尽く兹に在り
山北山南游屐伴, 山北山南 游ぶ屐し
凭君万里寄相思。 君に凭む 万里相思を寄することを
【通釈】
(その一)
君は、中山の第一流の人物で、琉球国王の命を承って谢恩の表文を持参し、再び皇帝のいる都に上る。琼河から一只の船は燕京に向かう路に就き、途中の山川を重ねて数え、全ては(君とっては)旧游の地である。
(その二)
昔から、东にある国々の人は诗を作る。朝鲜の絶妙な诗と比べても逊色することがない。一巻の『燕游』に后集を増やして、银河(大海)を渡る船に乗り(やって来た君は)、この国中の珍奇な物事を(诗で咏んで诗集に)全て収めている。
(その三)
雪が霁れたが、胥江は澎湃として、冻てつく云を卷き上げ、寒冬の野原に荒草が萋々としている。(君は)一つの孤坟に赴く。异郷での墓参りは前例がない。九泉の下にいる亲の栄光を明らかにし果せるのは、ただ君だけであろう。
(その四)
(琉球には)鹿毛の笔と秃砚が、林木众多のように豊かに数多くある。大海の东方を眺めて、そこにある琉球は雅な教化を受け、文化の水准が深厚である。(君には)琉球の)教育を振兴することや官制を备えることに关する数篇の著作があり、(それは)史家の心の表现でもある。
(その五)
帰路に赴き、大海を航海する时、罗针盘の磁针が东を指し、そのまま东を指して进むと、この罗针盘の中での毫厘の差は、千里の谬りを生じてしまう。それ故、六月の西南の季节风に便して乗じる时、よく(磁针を)东南にすることを认めて(舵を)取るべきである。
(その六)
夏至と冬至にきっと季节に合わせて吹く季节风は海门から吹いている。人を庇う神(天妃)は、この日、皇帝から新たに恩恵を受ける。怡山院の中での春·秋の祭りが行われる。この祭りの盛典は久米村おいても颁行される。
(その七)
30年前、琉球の英才は(官生として)国の宾客になっている。(国王に)代わり、寸牍を持って、皇帝陛下に呈上する。帝都の観光(新しい知见を得る)をしたら有用な人材となることが容易に想像できよう。ぜひ琉球の前途有望な少年を派遣して、后尘を拝させてほしい。
(その八)
10月になっても、帰る人の乗る船は出航することはない。鸿胪寺が皇帝からの下赐を宣告し、それを受ける谢恩使は、新しく作られた暦书を捧げ持つ。煌々たる正朔を东海(琉球)に颁赐する。今上(当代の皇帝)の颁布する暦书は、今回初めて60年を一回りした。
(その九)
洒脱な风度で紫の冠を悠然と头に被っている。多くの皇恩を受け、阙の门前で下赐した币帛などの赠り物を捧げ持っている。谢恩の礼を终え、重ねて礼部の宴に上っているのは、15年前の旧使臣である。
(その十)
半年で、海东(琉球)の珍奇な物事を尽く観覧した。新たにする五岳の絵図は、全てここにある。山北や山南への游行に随行した人たちに、君から(私が)万里の果てから思いを寄せていることを伝えてほしい。
【分析】
この10首の诗を通して、徐葆光は、まず、紫の冠を悠然と头に被っている程顺则を「风度翛然」と褒め、「殊郷上冡无前事,光贲重泉只见君」と异郷で亡くなった亲に思いを慕らせ墓参りをしてその栄光を明らかにし果せることは、普通はなかなか出来ないだと褒め、また「中山第一流」と程顺则の人品·品性を称えている。
それから、程顺则の着した『雪堂燕游草』、「学记」(「庙学纪略」)、『官表』(『琉球国中山王府官制』)などの著作に高い评価を与え、その中国·琉球の往复航路の航海指南书である『指南广义』の欠点である「多用卯针」を指摘して、「当参用辰、巽针」と修正を求めている。
そして、今回の北京行きについても、程顺则の経験した珍奇な物事を诗で咏み、『雪堂燕游草』の「后集」を着すことに期待を寄せている。また、久米村の両天妃宫でも年に春·秋の二回の祭典が行われていることに共感を覚え、琉球の将来性のある少年を官生として派遣することを国王に伝えて欲しいといったことを程顺则に頼んでいる。
最后に、「山北や山南への游行に随行した人たちに、君から(私が)万里の果てから思いを寄せていることを伝えてほしい」と、琉球にいる旧友たちへの思いも伝えて欲しいと程顺则に頼んでいる。
この康熙59年(1720年)10月16日の再会が二人にとって、今生の最后の対面となった。
三、徐葆光と蔡温との交流
『蔡氏家谱钞録(十一世 蔡温)』「十一世 温」条(以下、「蔡温家谱」と称す)によると、蔡温(1682-1762)の童名は真蒲戸、字は文若、号は鲁齐という。康熙21年9月25日に、総理唐栄司(久米村総役)蔡铎の次男として、久米村で生まれ、干隆26年12月29日に80歳で逝去している。
蔡温は、康熙32年に若秀才、35年に秀才、39年に通事、41年に黄冠を赐っている。その后47年に遏达理官(当座)、49年に都通事、51年には察侍纪官(座敷)、53年に正议大夫、55年に申口座に擢用され、58年(1719年)7月26日に尚敬が册封を受けた2日后の7月28日には紫金大夫となっている。59年2月16日、册封の公务が终了し、封舟(御冠船)が那覇を出港した后、8月の论功行赏として蔡温は法司品衔(三司官座)に升任している。雍正6年(1728年)10月1日には、元法司である马良意の退官に伴い、47歳で法司官に任用されている。さらに干隆元年(1736年)1月6日に、羽地大川の大改修工事を完成させた功绩が认められ、紫地浮织冠を顶戴している。干隆17年(1752年·尚穆王元年)には、71歳で养老のため隠居を希望し、王府はその意向を萨摩へ伝えているが、蔡温はその后、紫地五色花织冠の位に升り、尚穆王の册封诸事を处理し、干隆22年(1757年)1月30日に册封使の全魁·周煌が帰国した后、4月8日に76歳で30年间にわたって务めた法司官を退官している。
(一)初対面
徐葆光は、下记の诗で、蔡温の経歴や功绩や著作などのことを褒め称えている。また、蔡温と初めて颜を合わせるときに、その第一印象を描いている。
◎赠紫金大夫蔡温
(紫金大夫蔡温に赠る)
中郎才品果无伦, 中郎の才品 果たして无く
两鬓青青映紫巾。 両鬓青青として 紫巾にゆ
柳槛春风陪讲席, 柳槛の春风 讲席にり
星轺金叶请皇纶。 星轺の金叶 皇纶を请う
覇江碑上鸿文丽, 覇江の碑上 鸿文丽しく
首里坊边赐宅新。 首里の坊辺 赐りし宅は新し
最羡埙箎联锦带, 最も羡む埙箎 锦帯をね
朝回双奉白头亲。 朝よりりてりして奉る 白头の亲
【通釈】
中郎の才能や品性は、比类なく、青青(若々しい)とした両鬓は紫巾に映えている。春风が槛中(生け垣の内)の柳を吹き払っているように、国王に陪席し、讲席で讲义する。使节を载せる车に乗り、金箔を用いた表文を呈上して皇帝の纶旨を请う。
覇江碑に雕られた优れた文章は丽しい。首里の一角に赐わた邸宅は新しい。最も羡ましいのは、仲の良い兄弟が共に锦の帯を着用し、国王に朝见し、帰宅すると二人して白髪头の亲に孝养を尽くすことができることである。
【分析】
诗の1句目における「中郎」とは、中国の汉代の末期に文坛にて活跃した文学者蔡邕(133-192)のことである。彼は、汉の献帝の时、左中郎将という官职に任じられ、「蔡中郎」と称された。ここでは、蔡温を指す。この句では蔡温の才能や品性を褒め称えている。
2句目は、初対面の蔡温の外见を、青青(若々しい)とした両鬓が头の上に被っている紫色の冠に映えていると形容している。
3句目である「柳槛春风陪讲席」の诗句の自注「为国王师」が示すように、蔡温は、康熙50年(1711年)4月、30歳で、国王尚益によって13歳の世子である尚敬の「师职兼务近习职」(教师兼近习役)に任じられ、翌年の冬、尚益が薨去し、尚敬が即位すると、「国师」(国王の师)に任じられている。
4句目である「星轺金叶请皇纶」では、世子尚敬が蔡温を派遣して、康熙皇帝に请封のことを讴っている。
「蔡温家谱」によると、蔡温は、康熙55年に进贡と尚敬の册封を请うため、副使の正议大夫として、正使の耳目官の夏执中(夏氏兼城亲云上贤年)と共に、11月15日に那覇を出港したが、马齿山の洋面で暴风に遇い帆柱が折れ、12月2日に久米岛に漂着している。船の补修を行って、翌年の1月20日に、久米岛を出発し、2月2日には福州に到着している。その后7月12日に、福州を出発、11月2日に北京に到着し、4日に进贡·请封の表·奏·咨文を同时に呈上している。数日后、急に皇太后が亡くなったため、皇帝や百官もその葬仪に忙杀され、琉球の进贡及び请封については、その处理が大幅に遅れることになった。翌年(康熙57年)の1月8日に进贡の处理はなされたが、请封については、处理が遅々として进まず、2月7日に至って、夏执中と蔡温が礼部にて、礼部の侍郎大人二人から、尚敬の请封について以下の疑问が书面で问われた。
康熙四十八年,国王贞薨,该应遣使请封,此天朝大典也,有何縁由遅延至今,然后请封。
(康熙四十八年、国王の尚贞が薨去した际に使を遣わし请封すべきであり、これは天朝の大典である。何の縁由があって、遅延して今に至ってから请封するのか。)
それについて、蔡温は以下のように书面で答えている。
康熙四十八年,贞王薨,遣使报丧,至五十年丧服已除,当五十一年进贡之期,理合请封,奈王世孙尚益辞世,又遣使报丧,至五十三年丧服已终,故今照例请封。
(康熙四十八年に、尚贞王が薨去したことから、既に使を遣わし丧を报じた。五十年に至って丧期を终えた时は、五十一年の进贡の期に当たっていたことから、请封すべきであったが、急に王世孙の尚益が世を去ったので、又、使を遣いて丧を报じた。五十三年に至ってようやく丧期が终えたので、今、例に照らして请封するに至った。)
と、理由について书面で答えている。これに対して、礼部の侍郎大人は、
康熙五十一年王世孙益辞世,至五十三年丧服已终,则五十四年理合请封,有何縁由,遅延至今。
(康熙五十一年に、王世孙の尚益が世を去り、五十三年に丧期を终えたのであれば、五十四年に请封すべきであり、何の縁由あって、今まで遅延したのか。)
と、また书面で诘问した。蔡温は、
康熙五十四年乃接贡之期,非进贡之期,古来敝国请封之例,必当进贡之期,兼能请封在案,是故俟至五十五年进贡之期,照例请封。
(康熙五十四年は接贡の期であり、进贡の期ではない。古くから敝国における请封は、必ず进贡の期に合わせて行っており、五十五年が进贡の期に当たっていることから、例に照らして请封を行った。)
と、また书面で答えている。最后に、礼部はこの蔡温の苦しい弁明に纳得して皇帝に上奏している。结果、2月19日に请封について皇帝の许可する圣旨が降りた。任务を遂行した蔡温と夏执中は、康熙57年8月9日に琉球に帰国している。
こうした蔡温の苦しい弁明による尚敬の册封の要请に応じ、康熙57年6月1日に、海宝·徐葆光が册封正·副使として任命された。徐葆光自身、册封使に任命されるであろうことは全く予期してなかったであろう。北京·那覇间往复の旅は优に7600kmを超えており、その道のりは长く険しいものであった。加えて、琉球における滞在日数は252日にも及んでいる。そもそも、徐葆光が册封使としてこのような経験をするに至った要因は、言うまでもなく、蔡温の尚敬に対する请封を求めるこの弁明に起因する。つまり、蔡温という人物は、徐葆光にとっては以前から面识のあった琉球人ではないが、蔡温こそが徐葆光と琉球とを强く结びつけた重要人物であった。
5句目の「覇江碑上鸿文丽」(覇江碑上の优れた文章)とは、蔡温の记した那覇港の北堤の上に立てられた「新浚那覇港碑文」を指す。「新浚那覇港碑文」は、康熙56年(1717年)5月5日から康熙57年闰8月22日まで行われた那覇港の浚渫工事の完工を记した石碑である。康熙57年12月に蔡温が撰文し、郑国柱が楷书で挥毫している。表に那覇港の浚渫とそれに关连する新桥の架设などの事业を记し、里に工事关系者と费用を记録している。徐葆光はこの碑文を「优れた、丽しい」と评価している。
6句目である「首里坊边赐宅新」は、蔡温が尚敬王から赐った新しい首里の一角にある邸宅について讴っている。
「蔡温家谱」には、「康熙五十一年壬辰十二月二十四日,因圣上(讳敬)御,岁十三登大位,温奉命任国师职(国师职,自温始)……翌年癸巳五月十八日,以温在久米村而不便于公务之故,特赐家宅,率领妻子移居于首里(其宅在西平等赤平村,而前有大街,后靠山林)。」という记事がある。康熙51年12月24日に、尚敬は蔡温を「国师」に任命し、康熙52年5月18日に、蔡温の久米村と首里城との往复は公务に不便のため、蔡温に首里の西平等赤平村にある邸宅を特赐したことが记されている。尚敬は常に蔡温を侧に置いて、その儒教的薫陶を受け治世を进めていた。
7·8句目の「最羡埙箎联锦带、朝回双奉白头亲」の両句の诗意は、最も羡ましいのは、仲の良い兄弟が共に锦の帯を着けて、国王へ朝见し、帰宅すれば2人とも白髪の亲に孝养を尽くすことができるということである。
中の「联锦带」とは、二人の兄弟が共に、锦の帯を着けて王府の役职を勤めているということであるが、実际、この时、蔡温は従二品の紫金大夫、蔡渊は正四品の中议大夫で、『琉球国中山王府官制』によると、従二品や正四品という职阶では锦の帯を着けることは许されていない。しかし、『中山伝信録』には、従二品の紫金大夫は功绩があれば、锦帯の着用することは可能であると记されている。恐らく、蔡温は功绩があったため、锦帯の着用することを国王から许されていたのであろう。だが、二人の兄弟が共に锦の帯を着けていることは有り得ないことである。こうした记述は、文学的な溢美の褒词であると见たほうがいいだろう。
徐葆光は、「最羡埙箎联锦带、朝回双奉白头亲」という诗句で、自身が蔡氏兄弟のように苏州にいる母亲に孝行することができず、彼らを羡望している。また同时に彼らの姿に深く感铭を受けている様子が窥える。
(二)蔡温の邸宅への访问
先述したように、尚敬王は康熙52年5月18日に、国师蔡温の久米村と首里城との往复は公务に不便のため、蔡温に首里の西平等赤平村にある邸宅を特赐した。徐葆光はある日、蔡温のこの特赐された邸宅を访问して、以下の诗を咏んでいる。
◎淡园
(淡园)
淡园一曲倚王城, 淡园一曲して 王城にり
赐第依然举室清。 第を赐わるに依然として 室を挙げて清し
松岭乍通粗辟径, 松岭乍ち通ず 粗辟の
草亭未盖已题名。 草亭未だわれざるも 已に题名す
烹茶共品家泉味, 茶をて共に品す 家泉の味
剪韭同尝采地羮。 をりに尝す 采地の
海外荒经与谁续, 海外荒経 谁とに続けん
赤平村里有端明。 赤平村里に 端明有り
【通釈】
淡园は王城(首里城)に寄り挂かるようである。国王から赐った邸宅は依然として室を挙げて清らかで静かである。万松岭に通ずる粗辟の道がある。草亭は未だ建てられていないが、すでに淡园という名が付けられている。
お茶をいれ、共に家の泉水を味わう。韮を切り取って、一绪に领地の羹を尝める。琉球を记録する文书は谁と共に読んでいくのか。赤平村の中に端正で聡明な人(蔡温)がいる。
【分析】
诗の1·2句目の「淡园一曲倚王城,赐第依然举室清」における「淡园」と「赐第」は、上述した尚敬が蔡温を「国师」に任命し、特赐した首里の西平等赤平村にある邸宅のことを指す。その邸宅は「淡园」と名付けられていたことがわかる。
3·4句目の「松岭乍通粗辟径,草亭未盖已题名」における「松岭」は万松岭を指す。『中山伝信録』には、天使馆から中山王府まで途中経过する场所について「上冈东行,为万松岭。石路修整,冈峦起伏,松皆数围,夹道森立,更进,为万歳岭。」(冈を升り东へ行くと万松岭である。石畳の路が整えられており、丘陵が起伏して、数囲の松が道の両侧に并んで、耸えている。更に进むと万歳岭である)と记している。尚敬から下赐された蔡温の邸宅(淡园)は万松岭の近くにあったことがわかる。しかし、「草亭未盖」と述べていることから、おそらく、邸宅全体は未だ完成していなかったのであろう。
5·6句目の「烹茶共品家泉味,剪韭同尝采地羮」は、徐葆光が淡园へ访れ、主人の蔡温と共に自家の泉水でお茶を入れ味わい、また、韮を切り取って、领地の羹を尝めている情景を描写している。自家の泉水や领地の食材を使った持てなしが、热意に満ちた主人の好客ぶりとして、客人である徐葆光によく伝っている。
7·8句目の「海外荒经与谁续,赤平村里有端明」における「海外荒经」は、『山海经』と关わっている。『山海经』は、「山经」、「海经」、「大荒经」、「海内经」から成る。100个以上の邦国における山、川の位置や地理、またその风土、动物、植物、矿物、巫术、宗教、歴史、医薬、民俗、民族などについて记述している。
徐葆光は渡琉后、绵密に琉球のことを调べて记録している。徐葆光はそうした琉球における记録文书の作成を『山海经』に喩えている。
また、琉球のことを调べて记録するため、徐葆光は琉球の典籍や文书を借りて阅覧するのみならず、现地踏査をも行っている。『中山伝信録』には、徐葆光の现地踏査が、时に蔡温と共になされていたことが记されている。よって、最后の句で「海外荒经与谁续,赤平村里有端明」(琉球を记録する文书は谁と共に読んでいくのか。赤平村の中に端正で聡明な人(蔡温)がいる)と咏んだ理由が知れよう。
(三)蔡温に留别する
那覇を出港し、故郷の中国への旅立ちに临み、徐葆光が以下のような诗を蔡温に赠った。
◎留别蔡大夫温
(蔡大夫温に留别す)
未觉此别远, 未だ覚えず 此の别の远きを
星分同在兹。 星分 同じくに在り
沧波一渡隔, 沧波 一たび渡れば隔たるも
贡舶半年期。 贡舶 半年の期
共曳登山屐, 共にく 登山の
联吟刻石诗。 联ねて吟ず 刻石の诗
兴狂犹未遍, 狂を兴すこと 犹お未だねからず
遗恨识君迟。 恨みを遗すは 君を识ることの遅きを
【通釈】
この别れで远く离れてしまうことを未だに実感できない。それは琉球も中国も同じ星分に所属するからだ。私は青い海を渡り、あなたとは隔たってしまうが、贡船の贡期は半年后に迫っている。
かつて共に登山の木靴を曳き、联句して刻石の诗を咏んだ。兴致は未だに尽きないが、もう别れなければならない。あなたと互いに知り合うのが遅かったことがただ恨めしい。
【分析】
诗の1·2句目の「未觉此别远,星分同在兹」の下には、「琉球与呉越同属女牛分野」(琉球と中国の呉越地域とは同じく女宿、牛宿の分野に所属する)という自注が付されている。徐葆光は蔡温との别れを远く离れ、二度と会えない别れだとは思っていない。
3·4句目の「沧波一渡隔,贡舶半年期」における「贡舶」とは、琉球から中国へ派遣される进贡に关わる船舶であり、进贡船のみならず、接贡船も含めている。「贡舶半年期」の诗意は、进贡に关わる船舶の派遣が、半年后に迫っているということであろう。
徐葆光は、自らは旅立ち、青い海原を渡り、蔡温とは隔たってしまうが、贡船の渡航も半年に迫っているので、もし、半年后、蔡温が贡船に乗り込んでいたら、二人は再会できると述べているのである。
5·6句目の「共曳登山屐,联吟刻石诗」で、徐葆光の琉球滞在中に蔡温の案内で、各地を游覧したことを追忆している。ここでは、山南の纟満の白金岩で联句を作って、石崖に刻んだことを挙げている。
7·8句目の「兴狂犹未遍,遗恨识君迟」では、琉球滞在中、各地を游覧し兴味は尽きないのに、帰国の期日が迫っていることを咏み、最后に、蔡温とお互いに知り合うのが遅かったことについて、非常に残念に思う心情を描いている。
徐葆光は天朝からの天使として派遣された册封使で年齢は49歳、蔡温は紫金大夫(藩国の大夫)で、年齢は38歳、年齢差が10歳以上もある。ここでは、徐葆光が蔡温のことを、「遗恨识君迟」(あなたと互いに知り合うのが遅かったことがただ恨めしい)と述べた点に注目したい。徐葆光の蔡温に対する思いは身分や年齢を超えていた。
四、评価贸易事件における徐葆光と程顺则·蔡温との关系
康熙58年琉球に来た册封使の随员·兵役らは、持ち込んだ货物の琉球侧との贸易の交渉が顺调に进まなくて、騒动が発生したことは「评価贸易事件」として周知している。以下、琉球の家谱资料の关连记载を通して、评価贸易事件における徐葆光と程顺则·蔡温との关系を见てみよう。
(一)徐葆光と程顺则との关系
先にも言及したように、「程顺则家谱」には、程顺则が所有する「朱文公墨宝」の轴に対して、徐葆光の书いた「跋」が収録されている。この「跋」には、徐葆光と程顺则との二人の交友に关する以下の记述がある。
既至中山,与大夫相识甚欢。后人役辈方以货市事溷,大夫深避不出,踪迹遂疎。
徐葆光は琉球での滞在初期、程顺则と知り合い、非常に喜んでいたが、后に随员らが、持ち込んだ货物の交易が顺调に进まないことから、不満が喷出して、騒动が発生し、程顺则は久米村に笼もり外に出ることがなくなるので二人の付き合う机会が少なくなって、关系が疎远になっていたというのである。
册封使滞在中、総理唐栄司(久米村総役)として程顺则の役目について、「程顺则家谱」には、以下のように记されている。
八月初二日,国王行拜告皇天后土礼讫,出御南御殿上庆成宴时,蒙特命王子、王叔、法司、国丈、国师及臣顺则奉侍左右陪御宴;初九日,国王诣馆拜谢天使;……二十日中秋宴;十月二十日重阳宴;十一月初一日饯行宴;初十日天使拜辞国王;十二月二十六日,国王再诣天使馆饯别。以上毎宴,臣顺则不离御侧赞相国王行礼。天使登席,恭代国王排盏、筯,献酒、肴、果、汤。
(八月初二日、国王が行って皇天·后土に拝告する礼が讫わって、南御殿の上に「庆成宴」に出た时、特命を蒙った王子·王叔·法司·国丈·国师及び臣顺则は<命を>奉って左右に侍り御宴に付き従った。初九日、国王は天使馆を诣でて天使に拝谢した。……二十日の中秋宴、十月二十日の重阳宴、十一月初一日の饯行宴、また初十日、天使が国王に拝辞した。十二月二十六日、国王が再び天使馆を诣でて饯别した。以上の宴毎に、臣顺则は御侧を离れず国王の行礼を助け、天使の席に登る时にも恭しく国王に代わり、盏·筯を排べ、酒·肴·果·汤を献じた。)
程顺则は册封使らの応接役の久米村の责任者として、中秋宴、重阳宴そして饯别の际に终始国王の傍について重要な世话役を担わされていたことが分かる。また、以上の记録の下に、続いて、
又总理天使馆并馆务司(宿当)、承应所(用闻)、掌性所(平等)、供应所(百次)、理宴司(振舞)、书简司(墨当)、评价司(买货)、管贽司(进物)、把门官等事,惟其评价一事,累百官,不可胜记。
(また、天使馆并びに馆务司<宿当>、承应所<用闻>、掌性所<平等>、供应所<百次>、理宴司<振舞>、书简司<墨当>、评价司<买货>、管贽司<进物>、把门官等の事を総理していた。惟だ、其の评価のことは、百官にも累することは胜げて记すことができない。)
といったことが记されている。程顺则は国王が册封使と接する际の世话役を任されていたばかりではなく、天使馆について全てのことを総理して、天使馆の馆务を司る馆务司(宿当)、天使馆の修理や日用具の管理をした承应所(用闻)、豚·山羊·鶏の调达·管理を司った掌性所(平等)、米·酒·野菜を管理した供应所(百次)、七宴を管理した理宴司(振舞)、书简の往来を管理した书简司(墨当)以外にも评价司(买货)の职务を统辖して、中でも「评価」に关しては、騒动へと発展し、琉球の百官にまでその累を及ぼしていた。
结果、徐葆光の记したように、程顺则は久米村に笼もり外に出ることがなくなり、评価贸易の交渉から离脱している。
程顺则は総理唐栄司(久米村総役)として、谕祭や册封に关わる上述した重要な职务を担わされ、胜手にそうした职务から身を引くことは许されなかったことから、程顺则の评価贸易交渉からの离脱は王府の対応措置であったであろう。その后の评価事件の处理に当たっては、蔡温に任されたことは周知のとおりである。
なお、程顺则の离脱の后かは分からないが、家谱资料には、他にも程顺则と徐葆光に关わる重要な评価贸易の问题に关连する记载がある。
『毛姓家谱(太工回家)』「六世安察(野村亲方)」条には、以下の记事が残されている。
既过数日难测处,副使徐大人密告程顺则古波藏亲方云:「商客所带来货物不尽买,恐有俟过年宝人来,商客皆有云:『只无故而兹土难驻,烧失封王船,自然过年,所有件物,俟宝人来,与他尽得商卖』商客如此有恶心起。」程顺则详于摄政、三法司,因是命云:「若有如此恶心起而烧宝船,非国王之忧而已,恐及万民困穷,汝等昼夜在舟上用心看看,若有大事,汝不及言,可及一大事就是。」自十一月十六日,昼夜尽心看守焉,幸至十二月二十六日,评价停当,敕使上船,翌年二月十六日荣归。
(既に数日が过ぎ、结果を予测するのが难い中、副使の徐大人が程顺则古波藏亲方に、「商客の持ち込んだ货物をく买わなければ、恐らく、年明け后の宝岛人の来航を待つことになる。商客の皆は、『ただ故无くしてこの国に延滞は出来ない。封王船を焼失すれば、自然と年をこすことになるであろう。全ての物件は宝岛人の来航を待ち、尽く商売すれば利を得ることができる』と言い、こうした悪心を抱いている。」と密かに告げてきた。程顺则は、これを受けて摂政、三法司に事の成り行きを详しく伝えた。そこで、<封王船并谢恩船修补奉行の毛安察野村亲方に>「もし、このように悪心を抱いて、宝船を焼失することがあったら、単に国王の忧いばかりではなく、恐らく万民にもその累が及ぶであろう。昼夜を分かたず、封舟を用心して监视し、もし大事がおこり、报告が间に合わなければ、その场で対处してもよい。」と命じたので、<毛安察野村亲方は>十一月十六日から、昼夜を分かたず、意を尽くして<封舟を>看守している。幸いにして、十二月二十六日に至り、评价が无事终了し、敕使は封舟に乗り、翌年の二月十六日に无事帰国している)。
封舟に乗り込んで琉球にやって来た商人たちの中には、货物の多くが残り、持ち帰ることを迫られたことに不満をもつ者が多く、中には不穏な动きをみせる者もいた。商売で大きな利益を得るため、宝岛(土噶喇)の商人が来航すれば货物が全て売れるのではないかと期待していたというのである。その故、越年し、帰国を延期する理由として、封舟を焼失させるという企図を持っていた。これを闻知した徐葆光は密かに、程顺则に密告していた。
この记事から、徐葆光の程顺则との友谊がよく见える。恐らく、徐葆光は琉球侧の立场に同情を寄せていたのであろう。
(二)徐葆光と蔡温との关系
先にも绍介した徐葆光の书いた「赠紫金大夫蔡温」诗は、「蔡温家谱」にも収録され、蔡温の和韵の诗も一首残っている。そして、徐葆光との关系について、「但唱酬之间,虽有风雅之趣,而评价事情千变万化,不胜之忧」(但し、唱酬の间で、风雅の趣があると虽も、评价の事情が千変万化し、その忧いに堪えきれない)と记し、风雅な文人の诗の唱酬を赞颂しながら、评価贸易の难航することに触れている。
また、评価贸易と册封の式典との关连について、「蔡温家谱」は、以下のように记している。
康熙五十八年己亥,当册封天使贲临之期,圣上及百官预习汉礼,温奉命毎日进城,专掌演礼。但此番除册封天使(海、徐)外,有测量官(平、丰)奉旨来临,而随封员役、兵丁凡六百数十员名,所带货物极多,本国所贮银两不过五万两,由是评价事情太致龃龉,而员役人等,失利含怒,八月以后,所有公事十有九破,无力可施。温又奉命仝法司翁氏伊舎堂亲方盛富窃寓于久米村,而公务之事,不论大小,千态万般,竭力尽心,总理其事。
(康熙58年尚敬の册封使が琉球に来る前、蔡温の任务は、册封诸仪礼の式次第を尚敬王と诸官吏に指道することであった。但し、今回は册封使以外に、二人の测量官が来琉し、それに随行する役员·兵丁は六百数十人に及び、持ち込んだ货物も极めて多かった。王府の准备资金は5万両に过ぎず、评价贸易に大きな支障がでて、思い通りに行かず利益を失った役员·兵丁は激怒し、8月以降、あらゆる公事は遅々として进まなくなかった。蔡温は王命を受け、法司の翁氏伊舎堂亲方盛富と共に、久米村に密かに入り、公务に关わる事は大小を问わず、あらゆる手段を讲じ、意を尽くして、その处理にあたった)
この难航した评价贸易については、『翁氏家谱(伊舎堂家)』「四世伊舎堂亲方盛富」にも、ほぼ同様の记事が见られる。また、法司の翁氏伊舎堂亲方盛富は、「冠船方惣主取」として蔡温と共に、久米村に密かに入り、评价贸易に关する指挥役に専念したことが记されている。上述した程顺则の「深避不出」は、こうした背景によるものであろう。
五、おわりに
以上、徐葆光と程顺则·蔡温との交流についてを明らかにすることを试みたが、最后に、缠めとしてもう一点を検讨されたい。
杨仲揆氏は「从天使在琉之供奉及贸易看徐葆光与蔡温之关系」において、清国と琉球との贸易の纷纠が生じた原因について论究し、さらに「徐葆光在琉球」において、徐葆光の琉球滞在中の勤勉さを评価し、徐葆光の『中山伝信録』の内容や琉球に残っている诗と扁额·联·挂け轴などを绍介している。
その中で、徐葆光と蔡温の关系悪化について、杨仲揆は「徐蔡关系原本不薄,谓徐蔡交恶之情况,可能始于最后徐葆光压迫购买私货,蔡温临危受命,而与徐正面冲突之际,其交恶也确因公事而起」(徐葆光と蔡温との关系は、もともとは薄くないのである。二人が交恶する情况に至るのは、徐葆光が琉球侧に、私货の购买を压迫し、蔡温は国难に临み王命を受け交渉に当たり、徐葆光と冲突したことにある。二人の关系が交恶するのは、こうした公务により起った)と指摘し、さらに「因此事之困苦交渉,徐葆光与蔡温原本相当好的交谊,也几乎付诸流水」と、使节団何百人の超额持参した私有货物の评价贸易をめぐる纷纠の交渉をめぐり、徐葆光と蔡温の间に生じていた友好的な关系は、ほぼ水泡に帰すことになったと结论づけている。
しかし、こうした杨仲揆の徐葆光と蔡温の关系悪化をめぐる论点については疑念をもたざるをえない。册封使节団侧と王府侧とで厳しい贸易纷纠が起こっていたことは事実である。しかし、副使の徐葆光が、果たして评价贸易における册封使节団侧の主役の身分を以て琉球侧の蔡温との间で、厳しく冲突する场面はあったのだろうか。当时、测量官も册封使と同格に位置付けられ、彼らもまた随行者を多く抱え、贸易のための货物を多くもたらしていた。当时、正使は海宝であり、评価贸易を巡っては当然、测量官侧からの圧力もあったはずである。率先して评価贸易の交渉に关わり、蔡温と正面冲突し关系が悪化した徐葆光が、果たして蔡温に対して诗中で、「遗恨识君迟」(あなたと互いに知り合うのが遅かったことがただ恨めしい)との心情を记すことがあり得るのであろうか。
実际に、『中山伝信録·巻第一·渡海兵役』でも、
本国素贫乏,货多不售,人役并困。法当禁絶商贾利徒之营求,充役者损从减装,一可以纾小邦物力之艰,一可以絶众役觊觎之想,庶几两利倶全矣乎。
(この国は、元々贫乏で、货物が多いと、売れない。众役は共に困ることになる。法によって商贾や利益のみを追求する徒辈が、私利を図ることを禁絶すべきであり、使事に充てられる者は、従者を减らし、货物を减らせば、一つは小邦の支出の负担を缓め、一つは众役の望むべきでないものを得ようと望むことを止めることができる。双方の利益が、共々矛盾无きよう愿う。)
と述べ、封舟に乗り込んで琉球にやって来て、利益のみを追求する商客が货物を大量に持ち込んだら、评価贸易により、贫乏な小邦の支出の负担が増え、厳しい状况になるだろうとしている。ここにも徐葆光の琉球侧の立场に同情を寄せていた心情が见えるのであろう。
「徐葆光が琉球侧に、私货の购买を压迫し、蔡温は国难に临み王命を受け交渉に当たり、徐葆光と冲突したことにある」という结论を出すときには、更に确かな证拠を提出することが必要であると考えている。
书目分类 出版社分类