【中文提要】蔡大鼎(道光三年(1823) -光绪十一年(1885)之后),字汝霖,亦称伊计亲云,琉球王国最末期久米村(现在的冲绳县那霸市久米)的士族。2012年,发表人报告了他曾经编着的《漏刻楼集》(附《伊计村游草》)、《钦思堂诗文集》、《续钦思堂集》(附《圣览诗文稿》)等作品。其中,有100篇以上的尺赎,也就是书简被得以确认。
蔡大鼎的尺赎,主要分为面向琉球国内记载文字的部分,和面向琉球国外,特别是面向福州人士的部分。对于后者来说,在《续钦思堂集》中,就包括送给福州土通事郑氏和谢氏的作品。由此可以反映出蔡大鼎在外交等诸多方面,占据着非常重要的地位。同时,也反映出他是一位优秀的琉球汉文学者。
虽说这些尺赎是由琉球国向外发送的物件,但分析其内容就会发现,所描写的是琉球与福州之间的人、物、以及信息等双向的交流活动,且描写得栩栩如生。另外,通过尺赎的各篇文章,也可以从一个侧面瞭解到蔡大鼎对于汉文的认识。如此看来,蔡大鼎的尺赎,特别是送给福州人士的尺赎,可以说是研究中国与琉球之间的历史、以及琉球汉文学的非常重要的第一手材料。
【关键词】蔡大鼎;琉球;福州;尺牍;中琉关系史
【要旨】蔡大鼎(道光三年(1823)-光绪十一年(1885)以降)は、字は汝霖、伊计亲云上とも呼ばれ、琉球王国最末期の久米村(现在の冲縄県那覇市久米)の士族である。2012年、発表者は彼の『漏刻楼集』(附『伊计村游草』)、『钦思堂诗文集』、『続钦思堂集』(附『圣覧诗文稿』)の存在を报告し、それらには100篇以上の尺牍、いわゆる书简が含まれていることが确认された。
蔡大鼎の尺牍の多くは琉球国内に向けて记したものと琉球国外、特に福州の人士に送ったものに分けられる。特に后者については『続钦思堂集』に福州の土通事である郑氏·谢氏に送った作品が含まれている。これは蔡大鼎が外交等の场面で重要な地位を占めるようになり、また琉球を代表する汉文学者となっていたことを反映している。
これらの尺牍は琉球侧から送られたものではあるが、その内容を分析すると、琉球と福州の间におけるヒト·モノ·情报の双方向の移动が活き活きと描写されている。また、尺牍の文章からは、蔡大鼎における汉文の知识の一端も确认することができる。このように蔡大鼎の尺牍、特に福州の人士に送った尺牍は中琉关系史および琉球汉文学に关する重要な第一次资料であると言えよう。
【キーワード】蔡大鼎;琉球;福州;尺牍;中琉关系史
一、はじめに
近世の琉球においては〝汉文〟が多くの场面で用いられた。具体的には『歴代宝案』等に代表される対中国の公文书のみならず、史书や碑文、诗歌(いわゆる汉诗)などが挙げられる。
その一つが「尺牍」、すなわち主に家族や亲しい人物に送った私的な书简である。琉球において尺牍がいつ记されるようになったかは明らかではない。また近世琉球全体を见渡して尺牍の展开を详细に検讨することも现段阶では难しい。ただし、陈正宏「琉球汉文尺牍小笺」が指摘するように、康熙年间の周新命にすでに『翠云楼小启』があり、ここには五篇の尺牍が収録されている。これは琉球におけるかなり早い时期の尺牍であるといえよう。
琉球の尺牍の歴史を俯瞰した时、蔡大鼎(1823-1885?)の存在を无视することはできない。琉球最末期に生き、かつ琉球史上最も多くの汉诗文を创作した彼は大量の尺牍も遗している。それらは琉球国内の人士に宛てたものと清に代表される国外に送られたものに大别される。本稿はこのような蔡大鼎の尺牍、特にそこに记された彼と福州の人士の交流について考えてみたい。
二、蔡大鼎の尺牍とその性质
第二次世界大戦以前に冲縄県立冲縄図书馆に所蔵されていた蔡大鼎の汉诗文集は冲縄戦の戦火で失われたと考えられている。そのため、戦后は长く东恩纳寛惇の旧蔵书であった『闽山游草』(附『続闽山游草』)·『北燕游草』·『北上雑记』(残欠)のみが知られていた。また、その作品の研究も充分に行われていたとは言いがたい。しかし、二〇一二年に冲縄県外で『漏刻楼集』(附『伊计村游草』)·『钦思堂诗文集』·『続钦思堂集』(附『圣覧诗文稿』)が発见され、それ以降、资料の発掘と研究が急速に进められ、蔡大鼎が文においても多作の人物であったことが明らかになっている。
尺牍もその例外ではない。文末の表に示すように、『钦思堂诗文集』『続钦思堂集』『圣覧诗文稿』に百篇以上の尺牍が収録されている。それらには「答水云庵禅庭上人见寄启」のように鹿児岛にあった水云庵の禅僧に送ったものや、「寄呈徐夫子启」のように北京で琉球から派遣された官生の林世功等の教习に当たっていた徐干に送ったものも含まれるとはいえ、そのほとんどが琉球の人々、もしくは福州の人士に送ったものである。これはいわば、蔡大鼎の交流の范囲を反映したものと言えるだろう。
蔡大鼎の尺牍については蔡大鼎の汉诗文集との关系も考える必要がある。
第一に指摘すべき事実は、ほとんどないしは全てが纪行诗からなる『伊计村游草』『闽山游草』『続闽山游草』『北燕游草』には尺牍が一篇も収められていないということである。その理由として、移动中の蔡大鼎に尺牍を书く时间的余裕がなかった可能性を想定できる。しかし、伊计岛、庆良间诸岛、石垣岛、福州、北京など长时间滞在した场所があること、また蔡大鼎の纪行诗、少なくともその一部は即兴ではなく、予め作成されたものであること、さらには庆良间诸岛から父の蔡徳懋に宛てた「旅中书信」二首があることから判断すれば、行旅中に尺牍を书く余裕が彼に全くなかったとは考えにくい。したがって蔡大鼎は旅において尺牍を书くことにかなり抑制的だったのではなかろうか。このことは蔡大鼎の文学创作の环境を论じる上でも今后、注目されるべき事実だろう。
第二に、『钦思堂诗文集』と『続钦思堂集』(および『圣覧诗文稿』)とでは収録される尺牍の性质が异なっていることが挙げられる。具体的に言えば、前者は「代作」、すなわち他人(おそらくは琉球の士族)にかわって记した作品を除き、ほぼ全て琉球の人士(福州に滞在している人物も含む)に送ったものであり、それとは対照的に后者に収録される尺牍のほとんどが清、特に福州の人士に宛てたものである。
この事実は何を意味するのだろうか。
『钦思堂诗文集』は蔡大鼎が存留通事としておそらくはじめて福州に滞在した咸豊十一年(1861。蔡大鼎39歳)に刊刻したもので、収録される作品はその前年の那覇出発直前までに作られたものだと考えられる。したがって、『钦思堂诗文集』所収の作品は蔡大鼎が中国、特に福州の人士と直接の面识を得る以前のものであり、それゆえ、「代作」を除いて清人に送った尺牍が无いと判断される。
『続钦思堂集』のなかに琉球の人士に送った尺牍がほとんどない理由については正确には未详と言わざるを得ない。ただ蔡大鼎の経歴にその手がかりがあるかもしれない。『続钦思堂集』と『圣覧诗文稿』は蔡大鼎が“琉球救国”のために密出国した后、光绪四年(1878。蔡大鼎56歳)以降に合刻、刊行されている。その収録作品の下限は福州到着の直前である光绪三年春である。一方、上限については、『続钦思堂集』の蔡大鼎の自序が『钦思堂诗文集』以降の作品を収めるということから、一応、同治元年の福州出航后とみてよい。この时期、蔡大鼎は、二度の渡唐や册封使の迎接など久米村士族として琉球の外交等に活跃している。おそらくは公务等で多忙となった蔡大鼎は琉球の人々へ尺牍を记すことがなくなったと思われる。
三、谢鼎への尺牍―蔡大鼎の尺牍に关する具体的分析(1)―
蔡大鼎の尺牍、特に福州の人士に宛てた尺牍を考えるにあたり、まず、「寄候谢燮臣夫子启」七篇について検讨したい。「谢燮臣」とは『伊计村游草』『北上雑记』を除く蔡大鼎の全ての汉诗文集に序を寄せている谢鼎のことであろう。まずは其一(以下、本章では「寄候谢燮臣夫子启」については题を省略する。)を确认しておきたい。
敬禀谢老夫子燮臣大人。万福金安。敬启者。暌违颜范。不觉年余。虽海天相隔数万里。而心在尊前。恍为服事。恭维夫子大人。聪明天纵。仁孝性成。宏探学海之元珠。蚤建词坛之赤帜。敷琼条而掞藻。宋艳班香。吐金薤以标英。周情孔思。借通丹桂。高披蟾窟之天香。兆应扶养。喜跃龙津之春碧。现今愚生有差告慰者。忝承法司向大人命令。转寓首里。敎授荫生。此非夫子大人敎泽之所玉成也哉。但未知何日再得仰聆嘉训。以畅积怀。望甚幸甚。谨修短启。叩祝鸿禧。并请令郎两位先生金安外。虔具土花布壹端。寄托新存留官转上。聊上表芹心。因附诗稿壹本。统祈润色。交与古存留官。带回本国。端此谨禀。临褚不胜瞻依之至。
(敬しんで谢老夫子燮臣大人の、万福金安をす。敬しんで启するは、颜范に暌违し、覚えず年余なり、海天相い隔つること数万里と虽も、心は尊前に在り、恍として服事を为す。恭しくれ夫子大人、聪明なること天縦、仁孝なること性成、宏く学海の元珠を探し、に词坛の赤帜を建つ。琼条を敷きて藻をくこと、宋艳班香、金薤を吐きて以て英をすこと、周情孔思たり。は丹桂に通じて、高く蟾窟の天香をき、兆は扶养に応じて、喜びて龙津の春碧に跃る。现今愚生や告げて慰むる者有り。忝じけなくも法司の向大人の命令を承け、転じて首里に寓し、荫生を教授す。此れ夫子大人の教沢の玉成する所なるに非ざらんや。但だ未だ知らず、何れの日か再び仰ぎて嘉训をき、以て积懐を畅ぶるを得るを。望甚幸甚たり。谨しんで短启を修め、鸿禧を叩祝す。并せて令郎両位先生の金安を请うの外、んで土花布壹端を具し、新存留官に寄托して転上せしめ、聊か芹心を上表せん。诗稿壹本を附すに因り、润色を统祈す。古存留官に交与し、本国に帯回せしめよ。端此、谨しんで禀す。褚に临みて瞻依の至るに胜えず。)
この尺牍に「颜范に暌违し、覚えず年余なり」とあることから、谢鼎との最初の出会いから约一年あまり后、すなわち同治二年に书かれたものだと考えられる。この尺牍にはいくつかの注目すべき内容が含まれている。具体的には、第一に谢鼎の人格や才能を称赞していること、第二に蔡大鼎自身が首里において教育に当たっていること、第三に蔡大鼎が谢鼎に「土花布」を送るとともに、自らの诗稿をも付して润色を依頼していること、第四に尺牍やこれらの物品の送付が新旧の存留官に托されていることが挙げられるだろう。
次にそれぞれの内容を他の尺牍も确认しつつ、详细に検讨してみたい。
蔡大鼎は其一において谢鼎を「宋艳班香」、「周情孔思」と评し、その文学を宋玉や班固といった赋の大家に、また思想を周公や孔子などの儒家の圣人に拟え、赏赞している。このように谢鼎の文学や道徳、あるいは人品などに対する赏赞はこの尺牍に限らない。其四には
僊标上品。玉笋名流。三峡词源。笔底余波回粤海。千寻壁立。胸中正气压罗浮。
(仙标にして上品、玉笋にして名流、三峡の词源にして、笔底の余波は粤海を回り、千寻の壁立にして、胸中の正気は罗浮を圧す)
とある。其六は
文章为百代宗工、道徳乃诸儒领袖。……
(文章は百代の宗工たり、道徳は乃ち诸儒の领袖たり。……)
という。其七は
八闽俊望。七歩奇文。矫矫丰姿。雅度夙隆于闽峤。昂昂品节。奇才早重于海陬。
(八闽の俊望、七歩の奇文あり、矫矫たる丰姿ありて、雅度夙に闽峤に隆く、昂昂たる品节ありて、奇才早に海陬に重し)
という。其八は
干坤正气。邹鲁眞儒。八斗才雄。羡自白雪郢中飞出。两都赋就。惊从黄河天上奔来。
(干坤の正気あり、邹鲁の真儒たり、八斗の才雄にして、白雪より郢中に飞出するを羡み、両都の赋就り、黄河より天上に奔来するに惊く。)
とある。
実际、谢鼎は北京で行われた礼部试も受験している。それを承けて、其七では「身近丹墀、五色云中看凤舞、名登黄甲、九重天上见龙飞。」(身は丹墀に近く、五色の云中に凤の舞うのを看、名は黄甲に登りて、九重の天上に龙の飞ぶのを见ん)と谢鼎の科挙の合格を想像したような记述も见られる。したがって、谢鼎が礼部试を受験する程度の知识や教养を持っていたのは确かだろう。しかし、彼に対し、蔡大鼎が与えた高い评価や赏赞は过褒、もしくは阿谀ともいうべきものではなかろうか。それでは、蔡大鼎がこのようにした理由は何か。其一に「诗稿壹本を附すに因り、润色を统祈す」とあるように、蔡大鼎は谢鼎に诗稿を送り、添削を依頼している。其四にも同様に「因附贱作二本、伏祈诲定。」(贱作二本を附すに因り、伏して诲定せんことを祈る)とあり、蔡大鼎は添削や润色を施してもらうために、诗やおそらく文章を琉球から福州の谢鼎のもとに复数回にわたって送っている。谢鼎もその依頼に応えており、其四に「敬収尊札一缄。更手诗稿一册。……」(敬んで尊札一缄、更手せる诗稿一册、……を収め)、其六に「并蒙润色诗稿」(并びに润色せる诗稿を蒙り)、其七に「捧诵瑶翰佳序。曁润色诗稿」(捧げて瑶翰佳序、び润色せる诗稿をみ)という。さらに前述したように、谢鼎は蔡大鼎の汉诗文集に序も记しており、其七に见える「佳序」はそういった序文の一つを指すと考えられる。したがって、蔡大鼎は谢鼎を师の一人として尊崇していた、少なくとも蔡大鼎にとって谢鼎はそのように表现すべき人物であったことは确かだろう。过剰ともいうべき高评価はこのような事情を背景としているのだろう。
次に尺牍に记された蔡大鼎やその周辺の情况について见てみたい。其一には、蔡大鼎が最初の渡唐の后に首里において教育にあたっていたという内容が记されていた。蔡大鼎自身の情况は他の尺牍にも见える。たとえば、同治五年の尚泰王への册封使の帰国の际に寄托した其六の尺牍には「办理册封典礼」(册封典礼を办理し)および「所幸充补大通事。应于来冬迎接船赴闽。」(幸いとする所に大通事に充补せられ、応に来冬に于いて迎接船もて闽に赴くべし)とあり、蔡大鼎はこの时期、册封仪礼の実务を担当するとともに大通事に任じられていた。また其八には実弟で郑氏に养子にいった郑大経が福州に赴くことが记される。これらはいずれもこれまではほとんど知られていなかったことである。
尺牍に记されるのは蔡大鼎や琉球侧の事情ばかりではない。场合によっては、谢氏の情况も蔡大鼎の尺牍から明らかになる。たとえば谢鼎の礼部试受験に关する记载もその一つであろう。また其八では「部选寿宁县学篆务、于去秋七月扺任」(寿宁県学の篆务に部选せられ、去秋七月に于いて任に扺る)とあり、谢鼎が少なくとも寿宁県学に职を得たことが记される。
第三に中琉间のモノの移动の问题を考えたい。前述のように蔡大鼎は自らの诗稿を谢鼎に送るだけでなく、――润笔料の一部と判断することは困难だが――「土花布」も赠与している。このような赠答は决して珍しいことではなかった。具体的な品名は不明ではあるものの、其四·其六に「微物三色」、其七に「菲仪四色」、其八に「菲仪二色」とあり、复数のモノが赠与されていたことが窥える。一方、谢鼎も蔡大鼎に多种のモノを送っていた。书简や添削、润色を施した汉诗文の他に、其四では「宝书二册」「香茶二包」「雅扇二柄」「北京水笔四枝」、其六では「雅扇」「京笔墨」「宝字轴」「万应膏」、其八では「香茶」「米糕」「雅扇」「花布」を送っていることが确认される。つまり、福州から琉球に书籍、扇、文具、薬、食品などが流入していたことになる。その数量は决して多いものではなく、贸易という観点から论じることはできない。しかし、これらの物品が琉球に入ったことは确かであり、特に书籍や字轴の流入は蔡大鼎の文学や琉球汉文学の展开を考える上で注目されるだろう。
第四に蔡大鼎と谢鼎の间のモノの移动を仲介した人物を见ておきたい。其一からは存留通事が中琉间の个人の尺牍と物品の交流に重要な役割を果たしていたことが窥えるが、人名は特定されていない。しかし、同治四年に记された其四では「新存留(通事)」として王述粲、「古存留」として魏兄の名が挙げられる。冨田千夏氏の研究を参照すると、この魏兄は同治三年の进贡使の存留通事である魏掌政だと考えられる。また同じ其四では、既に述べたように蔡大鼎は谢鼎の书简や润色を依頼した诗稿、その他の物品を「崇德宗兄处」、おそらくはその邸宅において受け取っている。この尺牍は同治四年の夏以降に记されたものであり、したがってこれらのモノは同治三年に派遣された送还雇募商船が帰国する际に琉球にもたらされたと见るべきであろう。
このように谢鼎に送られた蔡大鼎の尺牍は、両者の交往が密接であったことを示すとともに、中琉关系史に关する新たな事実をも明らかにしていると言えよう。
四、郑虞臣への尺牍―蔡大鼎の尺牍に关する具体的分析(2)―
次に、蔡大鼎が福州の郑虞臣に送った尺牍である「寄候郑虞臣夫子启」十一篇について検讨したい。「郑虞臣」も『伊计村游草』『続闽山游草』『北上雑记』を除く蔡大鼎の全ての汉诗文集に序を寄せている。
まず、其一(以下、本章では「寄候郑虞臣夫子启」の题を省略する)を确认しておきたい。
门下蔡大鼎谨禀郑夫子大人函丈。自从拜别。倏歴一年。中外窵隔。寸私莫遂。怀恋反侧。瞻依弥深。恭维台下。学究三才。名高九牧。行义以达道。化洽东南。修身齐其家。敎存桥梓。祥分奎璧之躔。谅夸入彀。翼振恒山之顶。拟得登云。今有顽躯廸吉。差堪告慰者。辱蒙法司官向大人。着鼎移寓潭府。敎训荫生。此则我师大人敎化之所致者也。但私心所希冀者。萍踪再合。面命耳提。得以稍开茅塞。实为幸甚。兹缀芜函。恭叩鸿禧。并请令郎守曾先生近祉外。谨具土花布壹端。寄托新存留官。转上贵馆。稍伸微意。因附贱作壹本。伏祈诲定。交与古存留官。带回本国。端此谨禀。鼎临启曷胜瞻依之至。
(门下蔡大鼎谨しんで郑夫子大人函丈にす。拝别してより、ち歴ること一年、中外く隔てられ、寸私も遂ぐる莫く、懐恋反侧し、瞻依すること弥いよ深し。恭しくれ台下、学は三才を究め、名は九牧に高し。义を行いて以て道に达し、化は东南にし。身を修めて其の家を斉しくし、教は桥梓に存す。祥は奎壁の躔に分かれ、谅に入彀を夸り、翼は恒山の顶に振るい、登云を得んと拟す。今、顽躯の廸吉にして、や告げて慰むるに堪うる者有り。辱けなくも法司官の向大人の、鼎をきて移して潭府に寓し、荫生を教训せしむるを蒙る。此れ则ち我が师の大人の教化の致す所の者なり。但だ私心の希冀する所は、萍踪再び合し、面命耳提することにして、以て稍や茅塞を开くを得れば、実に幸甚たり。兹に芜函を缀り、鸿禧を恭叩す。并せて令郎の守曾先生の近祉を请うの外、谨しんで土花布壹端を具し、新存留官に寄托し、転じて贵馆にり、稍や微意を伸べん。诗稿壹本を附すに因り、伏して诲定を祈る。古存留官に交与し、本国に帯回せしめよ。端此、谨しんで禀す。鼎启に临みて曷ぞ瞻依の至るに胜えざらん。)
この尺牍も「拝别してより、倏として歴ること一年」とあり、「寄候谢燮臣夫子启」其一とほぼ同时期、すなわち同治二年に书かれたものだと考えられる。内容も类似しており、郑虞臣の人格や学问などへの称赞、蔡大鼎の首里(「潭府」とあることから国学を指すと考えられる)における教育、「土花布」の赠与と自らの诗稿の添削(「诲定」)の依頼、尺牍と物品の存留官への寄托が记されている。
郑虞臣について、其一では「学は三才を究め、名は九牧に高し。义を行いて以て道に达し、化は东南に洽し。身を修めて其の家を斉しくし、教えは桥梓に存す」と『大学』を引用するなど、彼の学问や儒教的道徳を高く评価している。郑虞臣の才能、文学、気概あるいは风格を称赞する表现は他の尺牍にも多く见られる。たとえば、其三に
人龙着瑞。文武标奇。家秉四知。久识越南夫子。学穷二酉。更夸海内词宗。
(人龙瑞を着し、文武奇を标し、家は四知を秉り、久しく越南の夫子を识り、学は二酉を穷め、更に海内の词宗を夸る。)
という。尚泰王の册封のあった同治五年に记された其七には
八闽威凤。六合文龙。星斗藴胸中。气压武夷之峻。波澜生笔底。词倾剑水之雄。
(八闽の威凤、六合の文龙にして、星斗は胸中に藴して、気は武夷の峻を圧し、波澜は笔底に生じて、词は剣水の雄を倾く。)
とある。其九には
才储八斗。学富五车。香馥云袍。姓字标于鼎甲。花明彩笔。勲名起自词垣。
(才は八斗を储え、学は五车に富む。香は云袍にり、姓字は鼎甲にされ、花は彩笔に明かにして、勲名は词垣より起たん。)
とある。其十には
中原大雅。间世眞儒。词源逸发。呑吐江汉之奇。道范峻标。揽挈泰华之秀。
(中原の大雅、间世の真儒にして、词源は逸発にして、江汉の奇を呑吐し、道范は峻标にして、泰华の秀を揽挈す。)
という。しかし、谢鼎の场合と同様、蔡大鼎は自らの诗稿を添削してくれる郑虞臣を过剰に高く评価したものと见るべきだろう。
蔡大鼎や家族の情况については、谢鼎に送った尺牍よりもやや详しく记されている。たとえば其二には「愚生上年六月廿日。五虎开船。因风不顺。漂到外岛。……当经国主因贡船入闽之便。咨请藩台大人。探问其船去向。至十月末旬。托庇回国。」(愚生上年六月廿日、五虎より开船すれども、风の不顺なるに因りて。外岛に漂到す。……て国主贡船の闽に入るの便に因り、咨もて藩台大人に、其の船の去向を探问せんことを请う。十月末旬に至り、托庇せられて国に回る)とあり、これは蔡大鼎が同治元年の福州からの帰国の际、鹿児岛に漂着したことを暧昧に伝えたものであり、琉球の対日关系の隠蔽政策を反映したものと考えられる。また、この尺牍にはさらに叔父の蔡徳润の病没も记されている。同治三年の尺牍である其三には「本七月转除副长史。稍辉门第。至胞弟大受。亦试举于文章司。」(本七月転じて副长史に除せられ、稍や门第を辉かす。胞弟の大受に至りては、亦た试して文章司に挙げらる)とある。蔡大鼎の任官および実弟の情报が记されている。同治五年に记された其七は父の蔡徳懋の死を伝えるとともに、「明年充大通事。前诣贵省。」(明年大通事に充てられ、みて贵省に诣る)と来年の渡唐を予想している。其十は「寄候谢燮臣夫子启」其八と同じく、実弟の郑大业が福州に赴くことが伝えられている。
これらの尺牍からは郑虞臣とその家族の情况も确认できる。家族の情况が具体的に明らかになる点は谢鼎に対する尺牍とやや异なる。たとえば、子息の名がしばしば见える。其五·其七では守曾と记され、其九·其十では省三とあるが、この二者は同一人物と思われる。また、其七では母と娘婿の死去(前者が同治四年、后者が同治三年)が记されている。この二人、特に母の死は郑虞臣が土通事(河口通事)の任务が果たせなかった、具体的には同治五年の册封に随行できなかった理由の一端ではないかと考えられる。
さらに、中琉关系史全般に关わる事情も记録される。おそらくは同治二年、具体的には其一の少し后に记されたと思われる其二には「本年九月初旬。生既将尺素。寄托接贡员役。转呈阁下。……该员役已经束装。正要开行。时有头号贡船归国。」(本年九月初旬、生既に尺素をて、接贡の员役に寄托し、転じて阁下に呈せんとし、……。该の员役已经に束装し、正要に开行せんとし、时に头号贡船の帰国する有り)という记载が见られる。これに従えば、进贡船の帰国が大幅に遅れたことを示す贵重な资料と言えよう。
モノの移动についても见てみたい。蔡大鼎から郑虞臣に送られたモノとして、其一に见える诗稿と土花布の他に、其二に「折扇(扇子)两柄」「手巾壹条」、其三に「蜡、扇贰色」、其五に「醤油壹壶」「佳苏鱼(カツオ节)两尾」、其七に「微物三色」、其九に「菲仪二色」、其十に「薄具二品」が确认され、やはり谢鼎への尺牍よりもやや具体的である。一方、郑虞臣から蔡大鼎には书简や添削した汉诗文の他に、其二に「雅扇」、其三に「奇书」、其五に「幼学须知一部」「雅扇」、其七に「联轴」「香草笺诗」、其十に「字画佳扇、雅笔、名笺、多品」が送られている。书籍、特に『幼学须知』といった具体的な幼学书の流入が明らかになったことは琉球における学问を考える上で注目に値する。
蔡大鼎から郑虞臣への尺牍とモノの移动を仲介した人物について确认しておこう。同治三年の其三では存留通事の魏掌政、同治四年の其五では接封大夫(正议大夫)の郑秉衡、同治五年の其七では存留通事の林永保、同治七年(あるいは同治九年)に记されたと考えられる其九では「二号舟通事」(在船通事)の「杨兄」が挙げられる。
郑虞臣への尺牍は内容の点では谢鼎へのそれと基本的には类似している。それは両者が同じ土通事の一族で、また科挙を受験する士大夫でもあったからであろう。しかし、详细に検讨すると両者への尺牍には差异があることが明らかになる。
五、叶四四と呉连捷への尺牍―蔡大鼎の尺牍に关する具体的分析(3)―
蔡大鼎は谢鼎と郑虞臣だけではなく、他の福州の人士にも尺牍を送っている。そのなかにはいわゆる汉诗文を添削し、あるいは礼部试等を受験するような士大夫层には属さない人々もいた。
同治二年に记されたと考えられる「答华人叶四四见寄启」其一は
前月叨蒙寄赐书信、曁香茶、神曲、等件。代为赔还钱票三千文。曷胜感激之至。……至恩借银票。本应及早奉还。奈去年本国疹疮流行。多害人命。弟家资费用。不可胜算。故不能如意偿还。乞赐寛期是祷。
(前月叨りに书信、曁び香茶、神曲、等の件を寄赐せられ、代りに为に銭票三千文を赔还せらるるを蒙り、曷ぞ感激の至るに胜えんや。……恩借の银票に至りては、本より応にに奉还すべきも、んせん去年本国疹疮流行し、多く人命をい、弟が家资の费用、げて算うるべからざるを。故に意の如く偿还する能わず。期を寛くするを赐わらんことを乞う、是れ祷るなり。)
とある。この尺牍の冒头に叶四四が书简や香茶等を蔡大鼎に送ったこととともに、叶四四が蔡大鼎にかわって三千文をある人物に返却したことが记されている。さらに、蔡大鼎は琉球で疹疮(おそらく天然痘を指すと考えられる)が流行し、家计が不如意となったことを理由に、借金の返済を犹予してくれるよう叶四四に依頼している。同様の记事は「答华人呉连捷见寄启」にも见える。
至恩借银票。久欲拮据奉赵。奈去年本国疹疮流行。多害人命。弟家资费用。不可胜算。为此困乏窘逼。不能从心完纳。愧甚愧甚。乃蒙檄催。更増羞报。肃恳洞察前情。恩准寛限。不胜悚栗之至。
(恩借の银票に至りては、久しく拮据奉赵せんと欲するも、んせん去年本国疹疮流行し、多く人命をい、弟が家资の费用、げて算うるべからざるを。此が为に困乏窘逼し、心に従い完纳する能わず。しきこと甚し愧しきこと甚し。乃ち檄催を蒙り、更に羞报を増す。肃しんで前情を洞察し、恩もて限りを寛くするをすをむ。悚栗の至るにえず。)
これによれば、蔡大鼎は呉连捷の「檄催」を受け取っている。この「檄催」とは借财の返済を促す书简と思われる。おそらく叶四四の书简にも借财の返済を促す内容が含まれていたかもしれない。
蔡大鼎が福州で借财をしなければならなかった理由は定かではない。ただし、両者への尺牍にいずれも「生意」すなわち家业の隆兴を愿う语が见えることから、彼等は福州馆に出入する商人(もしくは金融业者)であったと考えられる。
その业务の一つに「帮手」すなわち存留官等の现地での日常生活の世话をする人员を手配することがあったようである。たとえば「答华人叶四四见寄启」其一に「且所告帮手一欵。弟未接尊函之先。确与接贡船存留官翁长先生说明。既行约定。自可放心。」(且つ告ぐる所の帮手一欵は、弟未だ尊函に接せざるの先に、确かに接贡船の存留官の翁长先生の与に说明し、既に约定を行い、自から放心すべし)とある。また、翌年の存留官の幇手についても同様の约定をしたいと述べている。おそらく叶四四が书简によって蔡大鼎に今后の帮手について问い合わせたものに答えたと考えられる。
このように蔡大鼎は谢鼎や郑虞臣のような士大夫层の人士とは异质の人々とも交流し、尺牍を送っていた。その尺牍には借金やその返済、琉球使节を补佐する人间の手配など、福州での生活に关わる内容も描写されていた。
六、小结
本稿は蔡大鼎の尺牍、特に福州の人士に送った作品について分析した。言うまでもなく、书简である尺牍は本质的に自らの事情を相手に伝えるという机能を持つ。それゆえ、蔡大鼎の尺牍には蔡大鼎自身やその家族のこと、ひいては琉球末期の様々な情况が描写されている。そして、それらの描写は蔡大鼎がどのような情报を福州に伝えるべきか(そこには同时に何を伝えるべきではないのかということも含まれる)を判断した结果でもある。
尺牍には相手の情况が记されることもある。そのため、蔡大鼎の尺牍によって、いまだ充分には解明されていない福州侧の情况についても、――场合によっては谢鼎や郑虞臣に対する过剰なまでの高い评価や赏赞の表现も见られるが――ある程度、理解することができる。
さらに尺牍に付される形で様々なモノが中琉间を移动した。これらは个人の间の赠答品であり、王府による进贡贸易に比べて、その量的规模は遥かに小さい。しかし、これらには、そういった贸易からは见落とされるような、しかし中琉それぞれにとって有益、あるいは必要なモノが含まれている。特に书籍や添削された汉诗文は琉球末期の最大の汉文学者である蔡大鼎、あるいはその周辺を含めた琉球士族の知を形成するのに一定の役割を果たしたと考えられる。
最后に今后の课题について述べておきたい。
本稿では蔡大鼎が福州に送った尺牍、特に自ら执笔し、自らの名义で送った作品を中心に検讨した。しかし、彼には他に「代作」、つまり他者の名义で送った尺牍が多数见られる。また、咸豊年间以前は琉球の人士に宛てた尺牍も数多い。今后、これらの尺牍に対する研究も进める必要がある。そして、そういった作品を含めた蔡大鼎の尺牍の全貌を考えるにあたっては、家谱や『歴代宝案』など他の歴史资料や蔡大鼎の他の汉诗文と详细に比较することが求められる。
また琉球汉文学という视座から见た场合、蔡大鼎の尺牍の表现、特にその典故等を调査、考察することも求められる。それによって、蔡大鼎や琉球末期の汉文学の特征やその由来をさらに明らかにすることもできるだろう。
このように蔡大鼎の尺牍は、彼の経歴や文学のみならず、琉球末期の歴史·社会·文化を考える上でも重要な第一次资料の一つだと言えよう。したがって、琉球史や中琉关系史、琉球汉文学全般の研究において、蔡大鼎の尺牍が今后、议论·活用されると期待される。
※本稿はJSPS科学研究费17K18018「琉球王国最末期の汉文学者·蔡大鼎の日本·中国·琉球に关する知の形成と集积」(若手研究 (B)一般、研究代表者绀野达也、2017~2021)の成果の一部である。
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